蔣介石のカイロ会談参加とは? わかりやすく解説

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蔣介石のカイロ会談参加

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/27 05:04 UTC 版)

カイロ宣言」の記事における「蔣介石のカイロ会談参加」の解説

この会談後、中華民国国際社会における声望一定の位置高めたチャーチル回顧録によると、カイロ会談蔣介石もしくは宋美齢にとっては権力絶頂だった。蔣介石支援ふんだんに貰えると聞いて夫人同伴カイロに来た。そして日本無条件降伏させるまで戦う事を約束したチャーチルカイロ会談への蔣介石出席反対していた。一方ルーズベルト蔣介石出席させ、中華民国過剰な期待をかけていた。 ルーズベルト狙いは、抗日戦を断念して連合国戦線から脱落する恐れがあった中華民国を、米英ソの三巨頭加えて祭り上げ台湾割譲常任理事国入りさせて激励させて士気高めさせることだったと言われている。呂秀蓮副総統も「カイロ会議当時ルーズベルト大統領中華民国日本単独講和をし、蔣介石元総統が講和安易に受け入れるのを避け満州台湾澎湖島等を中華民国返還させるためのもの」と述べた。 ただしルーズベルト中国戦線実態認識していなかった。中華民国開戦以来から対日戦劣勢であり、中国共産党軍との連携にも消極的で、国共内戦すら再発しかねなかった。しかも1942年日本軍ビルマ援蔣ルート遮断したため、装備物資ヒマラヤ越えでしか供給されなくなったルーズベルトカイロ会談後の12月6日中華民国派遣されている外交官ジョセフ・スティルウェルから、次日本軍攻勢されれば国民党政府倒壊する冷水浴びせられた。スティルウェルは中華民国からアメリカ軍日本本土空襲計画することにも反対した。日本軍内陸部侵攻を招くためだった大日本帝国陸軍カイロ宣言翌年大陸打通作戦成功中華民国軍対日戦線をほぼ崩壊させた。 そこでアメリカは、中国大陸反攻拠点とする当初計画変更。マリアナ・フィリピン経由日本攻略することにした。カイロ宣言戦術的誤算があったことになる。蔣介石カイロ会談後、連合国の重要会議であるテヘラン会談ヤルタ会談ポツダム会談招かれなくなった蔣介石1944年には裏で繆斌通じた対日和平工作行った

※この「蔣介石のカイロ会談参加」の解説は、「カイロ宣言」の解説の一部です。
「蔣介石のカイロ会談参加」を含む「カイロ宣言」の記事については、「カイロ宣言」の概要を参照ください。

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