蔣介石への密使
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/02 01:36 UTC 版)
「宮崎工作」も参照 1937年(昭和12年)7月7日に起きた盧溝橋事件で日中関係が緊迫していた7月19日、龍介は父滔天と同じく孫文の盟友であった秋山定輔から電話で呼び出される。鞠町の秋山の自宅で向かい合うと、「すぐに南京に行って蔣介石を連れて来い」と命令される。何のためにか問うと、秋山は「判りきっているじゃないか、日本外道の懺悔だ。これを蔣君に聞いてもらうんだ。蔣君は聞く耳を持っているはずだ」と述べた。秋山は近衛文麿首相から、中国との和平工作の特使として滔天の長男である龍介を派遣するよう依頼されていた。龍介は抗日軍総司令の蔣介石を敵国に連れてくるなど、とても無理だと断ると、「汪兆銘ではどうだ」と迫られ、早速に向かうよう急き立てられる。目的を果たせるかどうかの判断もつかないまま、龍介は中華民国大使館に蔣介石への問い合わせを依頼する。 南京の蔣介石からいつでも面会に応じる事と、上海まで迎えを出すという返電があり、神戸港から上海への汽船「長崎丸」を手配した。23日午後8時、東京駅を避けて新橋駅から二等寝台で出発し、切符の名前は「高田隆助」という変名にした。途中で秋山から電報が入り、京都で下車して電話で連絡をとると「今朝閣議前に、陸軍大臣・杉山元が近衛公のところへ行く事になっている。何か問題が起こるかも知れんから、そのつもりで気をつけておけよ」という忠告であった。龍介は持っていた印鑑を航空便で東京へ送り、メモや手帳を引き裂いて処分し、出航15分前に長崎丸に乗船した。 船室に入ったのち、サロンに出るとそこで「失礼ですが、あなたは宮崎さんですね」と憲兵隊に肩をたたかれ、下船するよう告げられる。上海と打ち合わせている事を言い返すも荷物はすでに下ろされていた。龍介の上海行きは海軍によって電報が傍受されており、これを知った陸軍強硬派が憲兵を動かして龍介を拘束したのである。 龍介は憲兵分隊で待たされた後、「県庁に知り合いはいないか」と尋ねられる。神戸で憲兵に捕まった事を知った近衛文麿が、憲兵から司法省に引き取らせようと考え、塩野法相→馬場内相→兵庫県知事の流れで身柄の引き取りを命じていたという。そうとは知らない龍介は憲兵隊に居座り、31日の午後になって本部から来た私服の曹長に簡単な供述調書を取られる。内容は「近衛公の依頼を受けて南京へ行こうとしたのは誤りであった」という曹長の作文で、龍介は署名だけして拇印は押さなかった。翌日東京へ送還され、憲兵本部で始末書を提示される。内容は前日の供述書と同じく「近衛公の私的依頼を公的な依頼だと思ったのは誤解であった」という要領を得ないものであり、これに署名捺印すればすぐ釈放する事になっていると告げられる。 そうして本部から釈放されると、妻の燁子とその友人が迎えに来ていた。龍介宅は憲兵に捕まってすぐ家宅捜索を受けていた。秋山は三日間憲兵隊本部に監禁され、厳重な家宅捜索を受けた。 こうして龍介が一役担うはずだった日中全面戦争回避の和平工作は幻に終わった。
※この「蔣介石への密使」の解説は、「宮崎龍介」の解説の一部です。
「蔣介石への密使」を含む「宮崎龍介」の記事については、「宮崎龍介」の概要を参照ください。
- 蔣介石への密使のページへのリンク