蔣介石への不信
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 01:10 UTC 版)
一方、米勢力に接近し反日、排日の色を濃くする蔣介石の国民党政府に対して不信感を抱くようになった。加えてこの時期、中国共産党が華南地域に勢力を拡大していたが、この動きに歯止めをかけることのできない国民党について、松井は批判的な姿勢を強めていた。国民党政府が、リットン調査団の報告書を嬉々として受け入れたことについても不満を募らせた。当時、松井は次のように述べている。 英国の勢力を長江一帯に再建せしめ、之を全支に拡延せしめたるもの国民政府であり、米国資本の侵略的勢力を南支中支に誘因しつゝあるもの、亦国民政府とその党与とである。而して、その実質に於て独り満洲のみならず支那全土をも国際管理下に置かんことを意図せる夫のリットン報告書―リットン報告書を基礎とする国際連盟総会勧告案を無条件に受諾するに至りては、支那自らを売り亜細亜を裏切る彼等の罪責亦極れりと申さねばならぬ。「支那を救ふの途」大亜細亜協会機関誌『大亜細亜主義』創刊号、昭和8年5月発行 陸軍内部では統制派を中心に「中国一撃論」が盛んに説かれるようになっていた。日本への敵対視を続ける中国側の動向は看過できず、それならば蔣介石政権の政治基盤が脆弱な今の内に、一気に叩いておこうという論である。国民党政府に対する不信を濃くする松井は、徐々に「中国一撃論」へと傾いていった。
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