蔣介石の上海クーデターと国共合作の崩壊
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「第一次国共内戦」の記事における「蔣介石の上海クーデターと国共合作の崩壊」の解説
1926年の中山艦事件で蔣介石が共産党員を拘束するなどの軋轢があった。その後、国民革命軍総司令官になって実権を握った蔣介石が北伐を開始した。しかし、国共合作下で行われていた北伐の途上で、蔣介石が1927年に南京に国民政府を成立させ、同年4月12日、上海クーデターを決行した。これにより、国民党左派も共産党との連携を解消(武漢分共)し、国共合作は崩壊し、国民党と共産党は対立関係に入った。 黄文雄によると、蔣介石は第一次国共合作の頃には「赤い将軍」として共産主義を礼賛していたが、欧米の圧力や浙江財閥との関係により、上海クーデター以降は反共主義者となり、支那事変勃発前は、抗日闘争よりも共産党を弾圧する政策を優先した。また、スターリンは毛沢東よりも蔣介石を高く評価していた と言われ、中華民国を赤化させるつもりであったともいわれる。実際、西安事件の際は、毛沢東は蔣介石の処刑を主張したというが、スターリンは許可しなかった。
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