せいあん‐じけん【西安事件】
西安事件
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西安事件(せいあんじけん)は、1936年(民国25年)12月12日に中華民国陝西省長安県(現:西安市)で起きた、張学良・楊虎城らによって蔣介石国民政府軍事委員会委員長が拉致・監禁された事件。中国では西安事変と呼ばれる。事件収束に至る真相の詳細はいまだ不明だが、この事件によって、その後の共同抗日と国共合作が促されたとされる。
注釈
出典
- ^ a b c 児島襄『日中戦争3』文藝春秋、1988年、243頁。
- ^ a b c 児島襄『日中戦争3』文藝春秋、1988年、244頁。
- ^ 児島襄『日中戦争3』文藝春秋、1988年、246頁。
- ^ 児島襄『日中戦争3』文藝春秋、1988年、246-247頁。
- ^ 児島襄『日中戦争3』文藝春秋、1988年、247頁。
- ^ 児島襄『日中戦争3』文藝春秋、1988年、250頁。
- ^ 日本外交文書デジタルアーカイブ 昭和期II第1部 第5巻 上巻. 外務省. p. 656 2011年10月9日閲覧。
- ^ a b 児島襄『日中戦争3』文藝春秋、1988年、228-229頁。
- ^ 児島襄『日中戦争3』文藝春秋、1988年、231頁。
- ^ 児島襄『日中戦争3』文藝春秋、1988年、232頁。
- ^ a b c d e f g 梅本可奈子・如月隼人 (2007年9月17日). “【今日は何の日】1949年:楊虎城が殺害される”. Searchina. 2011年10月16日閲覧。
- ^ 後勝『ビルマ戦記―方面軍参謀 悲劇の回想』光人社、27頁。ISBN 4769805705。
- ^ a b 児島襄『日中戦争3』文藝春秋、1988年、263-264頁。
- ^ a b c d e 児島襄『日中戦争3』文藝春秋、1988年、265-266頁。
- ^ 児島襄『日中戦争3』文藝春秋、1988年、268頁。
- ^ a b c 児島襄『日中戦争3』文藝春秋、1988年、269頁。
- ^ a b 児島襄『日中戦争3』文藝春秋、1988年、270頁。
- ^ a b 児島襄『日中戦争3』文藝春秋、1988年、272頁。
- ^ a b c d e 児島襄『日中戦争3』文藝春秋、1988年、271頁。
- ^ 児島襄『日中戦争3』文藝春秋、1988年、281頁。
- ^ a b 「西安から釈放され飛行機で洛陽に安着 宋美齢夫人らとともに張学良氏も同行す」大阪朝日新聞 1936.12.26 (昭和11)
- ^ 児島襄『日中戦争3』文藝春秋、1988年、288頁。
- ^ 児島襄『日中戦争3』文藝春秋、1988年、294頁。
- ^ a b c d 児島襄『日中戦争3』文藝春秋、1988年、296頁。
- ^ 小倉 1937, p. 15-16.
- ^ 『東京朝日新聞』昭和12年2月22日付朝刊 2面
- ^ 『東京朝日新聞』1937年3月6日朝刊 2面
- ^ 『東京朝日新聞』1937年3月7日夕刊 1面
- ^ スノー 1964, p. 10-11.
- ^ a b c 長野 1975, p. 267.
- ^ 長野 1975, p. 284-285.
西安事件 (1936年)
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「第一次国共内戦」の記事における「西安事件 (1936年)」の解説
詳細は「西安事件」を参照 1936年12月7日、張学良は蔣介石に対し、国共内戦を停止し対日戦に向かうことが救国となると勧告したが、蔣は張学良は共産党に惑わされていると一喝した。12月12日、張学良の親衛隊が宿泊先を襲撃して蔣介石を拘束拉致した。西安に拘禁された蔣介石は国民党と共産党の再合作を迫られた。蔣介石は共産党周恩来らとの会談で反共姿勢から抗日姿勢への転換を受諾した。共産党の翻意で張学良は蔣介石に恭順して、12月26日に蔣介石と張学良が連立って南京に帰還したことで、西安事件は一旦は収まった。張学良が提案した内戦停止と一致抗日統一戦線結成は世論の支持を受け、蔣介石も無視できなくなった。それゆえ、1937年2月に開かれた中国国民党第五期第三次中央執行委員全体会議では、2月15日に赤化根絶決議を採択し、日本側へコミンテルンとの連絡をやめない限りは共産党の存在は認めないと伝えた。西安事件後を契機に壊滅寸前の共産党は、コミンテルンの方針もあり国民党との合作に活路を見つけようとした。しかしながら、国民党内の共産党不信は根強く合作の交渉を捗らなかった。4月12日、ソ連大使ボゴモロフが上海で国民政府に対し、英米仏など太平洋関係諸国と集団互助協定を締結するか、中ソ相互不可侵協定の締結を提案し、協定が締結されなくともソ連は5000万元の武器を供与できると提案した。
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