西安事件と国共合作とは? わかりやすく解説

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西安事件と国共合作

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:49 UTC 版)

第二次世界大戦」の記事における「西安事件と国共合作」の解説

1933年5月31日塘沽協定により満州事変停戦したが、中華民国政府満州国日本満州占領認めてはおらず日本軍中国共産党軍との散発的な戦闘続いていた。1936年10月蔣介石共産党軍根拠地への総攻撃命じたが、国民党軍身分ながら共産党接触していた張学良楊虎城は、共産党への攻撃控えていた。 12月12日張学良楊虎城いわゆる西安事件」を起こし張学良親衛隊第2営第7連120名で蔣介石拉致拘束した蔣介石拘禁は、上海国外で張学良クーデター」と報じられその後の動向着目された。 張学良楊虎城日本軍に対して中国共産党との共闘をするよう要求したが、監禁され蔣介石張学良らの要求強硬な態度拒絶した。さらに国民政府張学良官職剥奪軍事討伐検討し軍事委員会の緊急強化決定したまた、中華民国全国将軍から中央政府への支持張学良討伐要請する電報国民政府続々到着していった。 張学良目算通り人民戦線派および各地将領動かず世論張学良反対の立場であった形勢が不利となった張学良は、北支閻錫山の下に特使派遣して調停依頼妥協条件旧東北軍処置について協議求めた。また事情知った世論からも張学良は強い批判浴びることとなった12月23日にいったん蔣介石張学良和解成立したが、2日後12月25日張学良は「西安事件」の敗北洛陽認めその後西安戻った反逆罪により張学良逮捕され南京連行宋子文公館幽閉された。 しかし張は極刑国民党から永久除名にされず、12月31日軍事委員高等軍法会議により懲役10年の刑を受けたが、結局1991年まで国民党から軟禁の身で過ごし軟禁解除後の2001年ハワイホノルル生涯閉じた。しかしこの事件きっかけに、国共合作が進むことになる。

※この「西安事件と国共合作」の解説は、「第二次世界大戦」の解説の一部です。
「西安事件と国共合作」を含む「第二次世界大戦」の記事については、「第二次世界大戦」の概要を参照ください。

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