西安事件と日中戦争
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1931年(民国20年)11月、満州事変(九・一八事変)後の混乱を衝き、北京政府直隷派の呉佩孚が甘粛省の蘭州で地元軍閥に推戴されて中国国防軍総司令を自称する挙に出る。孫蔚如は楊虎城の命を受けて直ちにこれを討伐、平定した。楊は孫の甘粛省政府主席就任を蒋介石に求めたが、蒋はこれを拒否、孫は陝西に戻り同省南部に駐屯する。以後、孫は抗日・聯共の傾向を強め、長征中の紅軍とも交渉を重ね相互不可侵の協定を秘密裏に結ぶなどした。1936年(民国25年)12月の西安事件においても、張学良と楊から軍事顧問召集人・抗日聯軍臨時西北軍事委員会責任者・抗日援綏第1軍団軍団長に任命され、蒋らの逮捕に動く。楊が出国に追い込まれた後の1937年(民国26年)1月、孫が陝西省政府主席(前任者は邵力子)に任命された。 日中戦争(抗日戦争)勃発後の1938年(民国27年)6月、孫蔚如は第31軍団軍団長に任命され、山西省南部で日本軍を迎撃した。翌年2月、第4集団軍総司令に昇進し、同年中に陸軍大学将官班第1期で訓練を受けている。1941年(民国30年)、河南省に移駐した。1944年(民国33年)9月、第1戦区副司令長官に、翌年7月には第6戦区司令長官にそれぞれ昇進した。同年5月には、中国国民党第6期中央執行委員に選出されている。なお孫の後任として陝西省政府主席となった蒋鼎文は、在任中に日本軍の空爆を受けて恐怖し、自分と一部の側近だけを連れて成都へ逃亡する挙に出たことがあった。このとき、孫は西安市において各界人士に抗戦を呼びかけ、省を混乱から救った。また、抗日戦中の共産党との連携も孫は積極的であった。
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