西安事件と日中戦争とは? わかりやすく解説

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西安事件と日中戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/17 20:09 UTC 版)

孫蔚如」の記事における「西安事件と日中戦争」の解説

1931年民国20年11月満州事変九・一八事変)後の混乱を衝き、北京政府直隷派呉佩孚甘粛省蘭州地元軍閥推戴され中国国防軍総司令自称する挙に出る孫蔚如楊虎城の命を受けて直ちにこれを討伐平定した。楊は孫の甘粛省政府主席就任蒋介石求めたが、蒋はこれを拒否、孫は陝西戻り同省南部駐屯する以後、孫は抗日・聯共の傾向強め長征中の紅軍とも交渉重ね相互不可侵協定秘密裏に結ぶなどした。1936年民国25年12月西安事件においても、張学良と楊から軍事顧問召集人・抗日聯軍臨時西北軍委員会責任者抗日援綏第1軍団軍団長任命され、蒋らの逮捕に動く。楊が出国追い込まれた後の1937年民国26年1月、孫が陝西省政府主席前任者邵力子)に任命された。 日中戦争抗日戦争勃発後の1938年民国27年6月孫蔚如第31軍軍団長任命され山西省南部日本軍迎撃した。翌年2月、第4集団軍総司令昇進し同年中に陸軍大学将官第1期訓練受けている。1941年民国30年)、河南省移駐した。1944年民国33年9月第1戦区副司長官に、翌年7月には第6戦区司令長官それぞれ昇進した同年5月には、中国国民党第6期中央執行委員選出されている。なお孫の後任として陝西省政府主席となった蒋鼎文は、在任中に日本軍空爆受けて恐怖し、自分と一部側近だけを連れて成都逃亡する挙に出たことがあった。このとき、孫は西安市において各界人士抗戦呼びかけ、省を混乱から救ったまた、抗日戦中共産党との連携も孫は積極であった

※この「西安事件と日中戦争」の解説は、「孫蔚如」の解説の一部です。
「西安事件と日中戦争」を含む「孫蔚如」の記事については、「孫蔚如」の概要を参照ください。

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