西安事件・コミンテルンとは? わかりやすく解説

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西安事件・コミンテルン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 18:56 UTC 版)

張学良」の記事における「西安事件・コミンテルン」の解説

1934年張学良ヨーロッパから帰国すると豫鄂皖三省剿匪副司令に任命された。彼は河北省残っていた旧奉天軍閥残党呼び寄せて軍を整えた1935年西安駐留して9月から11月にかけて共産党根拠地攻撃したが、戦力では勝っていたもの士気の高い紅軍連敗し多く将兵失った。翌1936年1月1日紅軍捕虜となっていた107619団団長の高福上校洛川の第67本部引き渡された。高福源は第67軍長の王以哲(中国語版とともに張学良元に行き共産党抗日民族統一戦線提案している事を伝えた。これに同調した張学良は、2月21日3月3日中共中央連絡局長李克農(中国語版)と、4月9日には周恩来極秘会見し9月下旬両軍は「抗日救国協定」を結び停戦することになった。この時、既に対蔣介石クーデター構想などが練られていたと言われる10月22日蔣介石張学良督戦するために西安へやってきた。蔣介石は、「東北軍頼むに足らず」と知り東北軍福建移し代り30万人軍隊100機の軍用機集め計画開始した。このことは、共産党鎮圧政策強化とどまらず東北軍への懲罰張学良への警告であった12月4日蔣介石は再び西安に赴き、共産党紅軍絶滅最終決戦態勢ととのえ東北軍西北軍督戦するために、陳誠衛立煌など多くの軍首脳招集した12月10日蔣介石主導会議で、張学良現職解任し、東北軍とともに福建移動させることを決定。これによって、中央軍主力となる。11日夜の蔣張会談の際も、蔣は張の提言拒否する12月12日張学良楊虎城西安事件起こして蔣介石拘束し第二次国共合作認めさせた。12月14日西北剿匪総司令部解消し、自ら「抗日聯軍西北軍委員会主任名乗る西安事件前年1935年張学良は「中共山賊ほかならない。やつらの大方のところは既に片付けた残ったわずかな連中小山賊団となってあちこち散らばっているだけの事だ。」と吐き捨てるように語っていたが、私恨のために[要出典]西安事件起こした共産党員は、これまで非常に長い間、蔣に追われ皆殺し対象周恩来の首は高額賞金かけられていた)になっていたが、西安事件の時は蔣介石生殺与奪握った。 しかし張学良西安事件蔣介石日記読み、彼が対日戦略のために臥薪嘗胆の計を取っていることを知り驚愕する。しかし、蔣介石がここで本心公言すれば、それは、中国臥薪嘗胆の計を取っており、ひそかに全面的な抗日準備をしていると日本教えるに等しくその結果日本対中強硬派本格的な中国侵略開始早める結果を招くのは明らかであるため、張学良にも教えられていなかった。

※この「西安事件・コミンテルン」の解説は、「張学良」の解説の一部です。
「西安事件・コミンテルン」を含む「張学良」の記事については、「張学良」の概要を参照ください。

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