西安事件・コミンテルン
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1934年、張学良はヨーロッパから帰国すると豫鄂皖三省剿匪副司令に任命された。彼は河北省に残っていた旧奉天軍閥の残党を呼び寄せて軍を整えた。1935年、西安に駐留して9月から11月にかけて共産党の根拠地を攻撃したが、戦力では勝っていたものの士気の高い紅軍に連敗し多くの将兵を失った。翌1936年1月1日、紅軍の捕虜となっていた107師619団団長の高福源上校が洛川の第67軍本部に引き渡された。高福源は第67軍軍長の王以哲(中国語版)とともに張学良の元に行き、共産党が抗日民族統一戦線を提案している事を伝えた。これに同調した張学良は、2月21日と3月3日に中共中央連絡局局長李克農(中国語版)と、4月9日には周恩来と極秘に会見し、9月下旬、両軍は「抗日救国協定」を結び停戦することになった。この時、既に対蔣介石クーデターの構想などが練られていたと言われる。 10月22日、蔣介石が張学良を督戦するために西安へやってきた。蔣介石は、「東北軍頼むに足らず」と知り、東北軍を福建に移し、代りに30万人の軍隊と100機の軍用機を集める計画を開始した。このことは、共産党鎮圧政策の強化にとどまらず、東北軍への懲罰、張学良への警告であった。12月4日、蔣介石は再び西安に赴き、共産党・紅軍絶滅の最終決戦態勢をととのえ、東北軍・西北軍を督戦するために、陳誠・衛立煌など多くの軍首脳を招集した。12月10日、蔣介石主導の会議で、張学良の現職を解任し、東北軍とともに福建に移動させることを決定。これによって、中央軍が主力となる。11日夜の蔣張会談の際も、蔣は張の提言を拒否する。12月12日、張学良と楊虎城は西安事件を起こして蔣介石を拘束し、第二次国共合作を認めさせた。12月14日、西北剿匪総司令部を解消し、自ら「抗日聯軍西北軍事委員会」主任を名乗る。 西安事件の前年の1935年、張学良は「中共は山賊にほかならない。やつらの大方のところは既に片付けた。残ったわずかな連中が小山賊団となってあちこちに散らばっているだけの事だ。」と吐き捨てるように語っていたが、私恨のために[要出典]西安事件を起こした。共産党員は、これまで非常に長い間、蔣に追われ、皆殺しの対象(周恩来の首は高額の賞金がかけられていた)になっていたが、西安事件の時は蔣介石の生殺与奪を握った。 しかし張学良は西安事件で蔣介石の日記を読み、彼が対日戦略のために臥薪嘗胆の計を取っていることを知り驚愕する。しかし、蔣介石がここで本心を公言すれば、それは、中国が臥薪嘗胆の計を取っており、ひそかに全面的な抗日の準備をしていると日本に教えるに等しく、その結果、日本の対中強硬派の本格的な中国侵略の開始を早める結果を招くのは明らかであるため、張学良にも教えられていなかった。
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