軍事顧問
軍事顧問
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/12 06:35 UTC 版)
1922年、ソビエト連邦政府に属するブルーノ・ミラーの要請により、バウアーは毒ガス戦術の教書を著した。1923年夏にはミラーを通じてレフ・トロツキーの招きを受けてモスクワに滞在し、ソビエト連邦の経済・産業状況を視察した。1923年11月には指名手配中のためドイツ、ポーランド、チェコスロバキアを避け、ヴェネツィアからイスタンブール、オデッサ、キエフを経由してモスクワに赴いた。1924年2月まで滞在し、1925年に『赤いツァーリの国』を発表した。 トロツキーとの会談で、バウアーは1924年6月にドイツ大使ウルリヒ・フォン・ブロックドルフ=ランツァウがソビエト連邦と交渉し、ドイツ企業の支援で化学薬品工場をソ連内に建設し、バウアーをそこで働かせる予定であると知らされた。この化学工場の顧問とは別に、バウアーは航空機製造会社ユンカース・デッサウの代理人として月900ライヒスマルクを受け取っていた。バウアーのソビエト連邦への旅行はトロツキーが要請したもので、その費用がドイツ産業界から支払われていた。ラパッロ条約に基づく独ソ軍事協力では戦車、重砲、航空機、毒ガスなどがソビエト連邦内で試験された。ヴァイマル共和国軍の偽装会社が設立され、ソビエト連邦との取引に使用された。 1924年にはバウアーはマドリードに招かれた。マドリードに滞在中、バウアーはスペイン側とユンカース、ドルニエ、ハインケル、ローアバッハといったドイツの航空機産業界との接触を仲介し、その結果1927年にスペイン航空連合が設立された。また化学者ヴァルター・ネルンストとドイツ産業界との仲介役も果たした。既にそれ以前の1921年には、スペイン国営化学工場でバウアーは毒ガスや煙幕弾の生産に関わっていた。1923年にバウアーらは化学工場の近くにあるアランフエス宮殿で国王アルフォンソ13世に謁見しており、スペインの毒ガス開発は国王の肝いりで進められていたものだった。 1925年にスペインで蝗害が発生した際、この毒ガスがイナゴ退治に使用されたが、それを聞いたアルゼンチンの駐在武官の報告に基づき、バウアーは半年間アルゼンチン農業省顧問となり、イナゴやアリ、甲虫駆除の監督官を務めた。ヴェルサイユ条約により1920年に設置された軍事査察委員会は、食料生産に関係する物資の査察は行っていなかった。バウアーはアルゼンチンでもドイツの化学薬品企業の代理人を務めていた。ドイツとアルゼンチンの軍事協力では軍事顧問獲得が駐在武官の任務とされていたのである。 カップ一揆参加者が恩赦されたのちの1926年にバウアーは家族のいるポツダムに戻った。同年、国防省と交通省はユンカース社に対しバウアーとの協同をやめるよう要求した。しかしバウアーはその後もスウェーデンやオランダでユンカース社やエーリコン社の代理人を務めた。 それ以前の1923年、バウアーは中華民国政府の要請に基づきシグ社によるベッカー砲の開発に協力していた。同年、渡欧していた中国視察団は、バウアーに対し浙江省および江西省の軍事顧問就任を要請した。一方バウアーはイグネイシャス・ティモシー・トレビッチ・リンカーンの仲介で1924年から軍閥の軍事顧問に就任することになったが、1923年内にこの軍閥は崩壊した。 1927年、ルーデンドルフの仲介により広東政府はバウアーをドイツ軍需産業との交渉での顧問とした。5週間の船旅の後、1927年11月にバウアーは広州に到着した。こうしてバウアーは中独合作の枠組みの中で蔣介石の軍事顧問となった。毎月の報酬は約4000ライヒスマルクに相当する1400上海ドルであった。しかし1929年に天然痘のため上海のイギリス軍病院で病死した。
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