軍事面の評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:48 UTC 版)
天正4年に甲斐の僧・教賀が長福寺の空陀に送った書状によれば、宿敵たる武田信玄も常々謙信をして「日本無双之名大将」と評していたそうである。 謙信と他大名との鉄砲、弓、馬などの軍事編成の比はさほど差異はなく、戦術的にも大きな違いはない。だが、上杉軍の強さは、謙信の死後も、織田信長の支配地域において「武田軍と上杉軍の強さは天下一である」と噂されるほどのものであった(大和国興福寺蓮成院記録・天正十年三月の項を参照)。このことから上杉軍の武威は、謙信存命中から没後しばらくまでは、都周辺でも高い評価を得ていたものと思われる。その生涯で約70回もの合戦を行い、大きな戦いでの唯一ともいえる敗戦は第四次川中島合戦のみである。 第4次川中島の戦いで信玄や家臣たちが絶大な信頼を寄せていた副将・信繁を失った衝撃は大きく、謙信の強さを目の当たりにした信玄は次の第5次川中島の戦いでは本陣を塩崎城に置き、野に陣をはり決戦を挑もうとする謙信との野戦を避けた。結果的に信玄は信濃北辺の制圧を謙信に阻まれたため、信濃国の完全制覇を成し遂げるには至らなかった。また戦上手であった氏康も、謙信が関東に遠征し幾度となく北条領内深く侵攻しても、謙信を警戒していたため野戦を挑むことはほとんどなかった。 城攻めにおいては、数多くの堅城を攻め落としてきた(七尾城、富山城、武蔵松山城、小田城、松倉城等)。しかし野戦での電光石火で神がかり的な采配に比べれば成功せず撤退することもあった(小田原城、臼井城、唐沢山城、新田金山城、上野和田城等)。小田原包囲と同時に行っていた玉縄城などの支城攻略も成功せず、その後の北条の逆襲を招く結果となった。武田・北条両大名家と繰り広げた長期に亘る大規模な持久戦では苦戦することもあり、数多くの城を攻め落とし直接の対陣での敗北はほとんど無いものの、関東における勢力圏は広くはなかった。 なお、持久戦が必ずしも得意でなかった理由に、豪雪の三国峠と二正面戦略が挙げられる。謙信は関東で7回冬を越したが、国内の政情不安や北信濃や越中への出陣もあり、本拠を関東に移すことまでは出来なかった。結果として越後に帰国する度に関東衆の離反を許すこととなり、最終的には関東・信濃経略が共に立ち行かなくなる事態となった。しかし、武田の北進を阻み、北条の躍進を停滞させるなど、越後の国防には成功したとも言える。
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