軍事集団から国家への脱皮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 06:43 UTC 版)
「オルハン」の記事における「軍事集団から国家への脱皮」の解説
オルハンの治世にオスマン帝国は支配領域を広げるが、支配下に入れた地域に暮らす定住民、都市を往来する商人や旅人といった、これまでオスマンが率いていた遊牧民とガーズィーとは異質の人々を統治する政治機構を整備する必要に迫られた。 オルハンは統治体制の確立において、ブルサの東ローマ帝国の行政機構と行政官を受け継ぎ、後のオスマン帝国が規範とする制度を構築した。体制の確立においては東ローマの人材以外に、外部から招かれたイスラム法学者(ウラマー)、カラマン侯国(英語版)、イルハン朝といった周辺のイスラム国家から流入した書記の力も欠かせなかった。招聘されたウラマーたちはイスラム法官(カーディー)として、国家統治において直面する民政と裁判の問題をイスラム法(シャリーア)に依って解決した。 また、彼らウラマーはシャリーア以外に文章の読解、イスラムの先進国家の知識も持ち合わせており、行政分野においても重宝された。オルハンはウラマーを自国でも養成するべく、1331年にイズニクにオスマン帝国最初のメドレセ(大学)を創設した。 法官の整備と共に君主を補佐する役職が設置され、行政を統括する宰相に外来のウラマーであるアラエッディン・パシャ(英語版)を、軍事を統括するベイレルベイ(司令官)に長子のスレイマンを任命した。
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