軍事都市ヴィンドボナ
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「ウィーンの歴史」の記事における「軍事都市ヴィンドボナ」の解説
「ヴィンドボナ」も参照 ドナウ川に近いケルト人の集落ヴィンドボナ(当初はヴィンドミナとも)がウィーンの起源とされる。この集落を紀元100年頃にローマ帝国が征服し、新たな城塞、宿営地が設けられた。2世紀後半にマルコマンニ族との戦闘で荒廃したが、まもなくマルクス・アウレリウス・アントニヌス帝のもとで再建されたとされる。ドナウ川沿いに戦略上有利な駐屯地を求めた哲人皇帝は、171年にヴィンドボナに入城し、属州平定に奔走しつつも頻繁にこの地に滞在した。彼はヴィンドボナで著書『自省録』の多くを執筆し、180年にこの地で没した。 ローマ帝国の北辺近くに位置するヴィンドボナは、その50キロメートル東に所在する大規模駐屯地カルヌントゥムを後方支援するための城塞都市であり、防衛上重要な役割を果たしていたが、帝国の分裂と弱体化とともに衰え、5世紀にフン族、ゲルマン人などの侵入によって破壊された。ただし、都市の一部は残存しており、後年、ウィーン市のホーアー・マルクトの地下からローマ帝国の司令官の館跡が発見され、発掘調査がなされている。現在は、そのままのかたちで維持された構築物の一部が、古代ローマ博物館として保存され、一般公開がなされている。中世に再興するウィーンの都市構造は、この古代都市の構造に依存するものと考えられる。
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