帝国の分裂とは? わかりやすく解説

帝国の分裂(843年 – 877年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 04:10 UTC 版)

カロリング帝国」の記事における「帝国の分裂(843年877年)」の解説

843年ヴェルダン条約で、ロタール1世皇帝位イタリア王位ライン川ローヌ川間の領土継承した。この国は中部フランク王国呼ばれるルートヴィヒ2世ライン川以東イタリア北部東部すべての王権領土獲得し東フランク王国)、シャルル2世ローヌ川以西西フランク王国)を得たロタール1世844年長男ロドヴィコ2世イタリア王位譲り、さらに850年に彼を共同皇帝とした。855年ロタール1世死去すると、その国土はまた三分割された。イタリア従来通りロドヴィコ2世支配し、かつてのブルグント王国と被る領域プロヴァンス王位三男シャルルが、残り地域次男ロタール2世継承したロタール2世領域それまで特に名が付いたものではなかったが、これ以降彼の名をとってロタリンギアロートリンゲンロレーヌ)と呼ばれるうになるロドヴィコ2世父の死に際して領土得られなかったのが不満だったため、858年叔父東フランクルートヴィヒ2世西フランク王シャルル2世同盟したロタール2世はすぐに兄や叔父たちと和解したが、臣下から不人気抵抗するために兵をあげることすらできなかったシャルル逃亡した自分戴冠させるよう迫るルートヴィヒ2世聖職者たちが屈しなかったため辛うじてシャルル地位保たれた。860年西フランク王シャルル2世プロヴァンスシャルル攻めたが、これは撃退された。その後シャルル863年死去し、その領土ロドヴィコ2世ロタール2世分割された。ロドヴィコ2世アルルエクスアンブランの各司教区プロヴァンス王位獲得しイタリア王国併合した一方ロタール2世は、862年に自らの離婚助力してくれた兄ロドヴィコ2世領土割譲した869年ロタール2世嗣子なく没すると、その遺領870年メルセン条約ルートヴィヒ2世シャルル2世により分割された。また、同じく男子がいなかったロドヴィコ2世次の皇帝ルートヴィヒ2世長男カールマン指名していたが875年ロドヴィコ2世死去すると、教皇ヨハネス8世支持得た西フランク王シャルル2世イタリア王位皇帝位獲得した。翌876年ルートヴィヒ2世死去しシャルル2世東フランクをも併呑ようとしたが、アンダーナッハ戦いでルートヴィヒ2世息子たち敗れた東フランクカールマンルートヴィヒ3世カール3世三兄弟分割された。

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帝国の分裂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 22:59 UTC 版)

オマーン帝国」の記事における「帝国の分裂」の解説

王家内の分裂サイイド・サイード死後王座支配するために対抗意識野心持っていた彼の息子たち帝国めぐって争ったために明らかであったサイイド・サイード息子1人バルガッシュ・ビン・サイード(英語版)は、兄のマージド・ビン・サイードが父親の死知らないこと悟って密かに上陸し、ムトニ(Mtoni)の宮殿ザンジバルの砦を支配しようとしたが、充分な支持者集められずに彼の試み阻止された。 マージド1856年10月28日ザンジバルスルタンであることを宣言し、この知らせとともにオマーンへ船が派遣されたが、1844年7月23日後継者として指名されマスカットの支配者およびサイディ軍最高司令官長年務めてきたサイード長男スワイニー・ビン・サイードは、マージド承認拒否して直ち武力ザンジバル取り戻そうとした。この争い直接結果として地域的安定憂慮しイギリス領インド帝国紛争仲裁申し出た英領インド仲介試みたのは、内戦激化することでインド洋における貿易海上交通の安全が損なわれたり、イギリス人財産影響が及ぶことを防ぐためであった英領インド総督であったチャールズ・カニングはその仲裁において、帝国2つスルターン国分割されるべきであるとし、ザンジバル・スルターン国とその属領はマージド・ビン・サイードに属しサイード東アフリカ自治領の前総督およびマスカット・オマーン・スルターン国はスワイニー・ビン・サイードにそれぞれ属する、と裁定した一方1862年3月10日には、パリにおいて英仏両国ザンジバル保証条約Zanzibar Guarantee Treaty)に調印しオマーンザンジバル双方独立尊重することで合意したザンジバルとの関係断絶によってオマーンもたらされ経済的損失認識したスワイニーは、マージド補償金として毎年4マリア・テレジア・ターラー(英語版)を支払うべきだと主張したが、支払い延滞し1年後停止した

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