帝国の分裂(843年 – 877年)
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843年のヴェルダン条約で、ロタール1世は皇帝位、イタリア王位、ライン川・ローヌ川間の領土を継承した。この国は中部フランク王国と呼ばれる。ルートヴィヒ2世はライン川以東とイタリア北部・東部のすべての王権と領土を獲得し(東フランク王国)、シャルル2世はローヌ川以西(西フランク王国)を得た。 ロタール1世は844年に長男ロドヴィコ2世にイタリア王位を譲り、さらに850年に彼を共同皇帝とした。855年にロタール1世が死去すると、その国土はまた三分割された。イタリアは従来通りロドヴィコ2世が支配し、かつてのブルグント王国と被る領域とプロヴァンス王位を三男シャルルが、残りの地域を次男ロタール2世が継承した。ロタール2世の領域はそれまで特に名が付いたものではなかったが、これ以降彼の名をとってロタリンギア(ロートリンゲン、ロレーヌ)と呼ばれるようになる。 ロドヴィコ2世は父の死に際して新領土を得られなかったのが不満だったため、858年に叔父の東フランク王ルートヴィヒ2世や西フランク王シャルル2世と同盟した。ロタール2世はすぐに兄や叔父たちと和解したが、臣下から不人気で抵抗するために兵をあげることすらできなかったシャルルは逃亡した。自分に戴冠させるよう迫るルートヴィヒ2世に聖職者たちが屈しなかったため辛うじてシャルルの地位は保たれた。860年、西フランク王シャルル2世がプロヴァンス王シャルルを攻めたが、これは撃退された。その後シャルルは863年に死去し、その領土はロドヴィコ2世とロタール2世に分割された。ロドヴィコ2世はアルル、エクス、アンブランの各司教区とプロヴァンス王位を獲得し、イタリア王国に併合した。一方ロタール2世は、862年に自らの離婚に助力してくれた兄ロドヴィコ2世に領土を割譲した。 869年にロタール2世が嗣子なく没すると、その遺領は870年のメルセン条約でルートヴィヒ2世とシャルル2世により分割された。また、同じく男子がいなかったロドヴィコ2世は次の皇帝にルートヴィヒ2世の長男カールマンを指名していたが875年にロドヴィコ2世が死去すると、教皇ヨハネス8世の支持を得た西フランク王シャルル2世がイタリア王位と皇帝位を獲得した。翌876年にルートヴィヒ2世が死去し、シャルル2世は東フランクをも併呑しようとしたが、アンダーナッハの戦いでルートヴィヒ2世の息子たちに敗れた。東フランクはカールマン、ルートヴィヒ3世、カール3世の三兄弟で分割された。
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帝国の分裂
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王家内の分裂はサイイド・サイードの死後、王座を支配するために対抗意識と野心を持っていた彼の息子たちが帝国をめぐって争ったために明らかであった。サイイド・サイードの息子の1人バルガッシュ・ビン・サイード(英語版)は、兄のマージド・ビン・サイードが父親の死を知らないことを悟って密かに上陸し、ムトニ(Mtoni)の宮殿とザンジバルの砦を支配しようとしたが、充分な支持者を集められずに彼の試みは阻止された。 マージドは1856年10月28日にザンジバルのスルタンであることを宣言し、この知らせとともにオマーンへ船が派遣されたが、1844年7月23日に後継者として指名され、マスカットの支配者およびサイディ軍最高司令官を長年務めてきたサイードの長男スワイニー・ビン・サイードは、マージドの承認を拒否して直ちに武力でザンジバルを取り戻そうとした。この争いの直接の結果として、地域的安定を憂慮したイギリス領インド帝国が紛争の仲裁を申し出た。英領インドが仲介を試みたのは、内戦が激化することでインド洋における貿易や海上交通の安全が損なわれたり、イギリス人の財産へ影響が及ぶことを防ぐためであった。英領インド総督であったチャールズ・カニングはその仲裁において、帝国は2つのスルターン国に分割されるべきであるとし、ザンジバル・スルターン国とその属領はマージド・ビン・サイードに属し、サイードの東アフリカ自治領の前総督およびマスカット・オマーン・スルターン国はスワイニー・ビン・サイードにそれぞれ属する、と裁定した。一方1862年3月10日には、パリにおいて英仏両国がザンジバル保証条約(Zanzibar Guarantee Treaty)に調印し、オマーンとザンジバル双方の独立を尊重することで合意した。ザンジバルとの関係断絶によってオマーンにもたらされた経済的損失を認識したスワイニーは、マージドが補償金として毎年4万マリア・テレジア・ターラー(英語版)を支払うべきだと主張したが、支払いは延滞し1年後に停止した。
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