帝国の安定とデリーの繁栄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/13 09:07 UTC 版)
「アクバル2世」の記事における「帝国の安定とデリーの繁栄」の解説
19世紀、ムガル帝国は帝都デリーとその周辺にのみに領土を持つ小国家となり、それらの領土もイギリスによって管理された。皇帝はイギリスからの年金受給者となり、その権限はデリー城の中でしか行使できなかった。ムガル帝国とイギリスとの間に結ばれた1805年の条約のもと、デリー周辺の地域の税収入と月額9万ルピーが支払われ、皇帝は年金生活者となっていた。 しかし、ムガル帝国の名目的主権は守られ、帝国は藩王国としては扱われず、帝国の君主も藩王より上の皇帝として扱われた。アクバル2世の治世、首都デリーはイギリスの管理下に置かれたことで人口が集積し、商業取引の中心地となり繁栄につつまれた。 また、デリーでは年に何度か皇帝主催の大きな祝祭が開かれ、皇帝や皇子、宰相や大臣、イギリス人らが象に乗り、そのあとに楽士や歩兵、騎兵が続き、賑やかな行列が町をねり歩いた。
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