帝国の安定化
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「ムーレイ・イスマーイール」の記事における「帝国の安定化」の解説
1678年から1679年にかけて、ムーレイ・イスマーイールはアムール山脈を越えてシェルグ地方への遠征を試み、アラブ部族の大部隊がそれに帯同した。この遠征での戦いでトルコの大砲は全てアラブ部族に徴集され、スルターンはオスマン帝国とモロッコの境界をタフナに設置せざるを得なくなった。イスマーイールは引き返して帰還するとウジダを再建した。1678年の遠征を終えると、彼は帝国南部(スースやトゥアットから現在のモーリタニアにあるシャルギ州まで)を再編成した。移動中に、イスマーイールはカイードとパシャを任命し、これら地域で自分の支配力を誇示するべく砦とリバートの建設を命じた。この遠征中、スルターンは国のサハラ地方にいる全てのマキル部族(遊牧民)からの使節団を受け入れ、国土はセネガル川まで拡大した。トンブクトゥのパシャリク(行政府)に対するモロッコの支配は1670年に確立され、イスマーイールの治世中ずっと続いた。 1678-1679年のラマダンの終わり頃、イスマーイールの兄弟3人(ハーラン、ハシェム、アフメド)と従兄弟3人がアイットアッタのサンハジャ連合やトゥドラ渓谷部族およびダデス渓谷部族の助けを借りて反乱を起こした。イスマーイールは大規模な遠征を開始し、続けてすぐにフェルクラ、ゲリア、トゥドラ、ダデスを占領した。 反乱部族はオアシスを放棄してアンティアトラス山脈東部のジュベル・サジェロに逃亡した。 1679年2月3日、大軍を擁するイスマーイールは、ジュベル・サジェロで困難な戦いを繰り広げた。 重傷者にはモロッコ軍の指揮官やフェズから参戦した兵士400人が含まれ、それは部分的敗北だった。この 戦いは、反乱部族がタフィラルト市民に反乱部族のサハラ領土を通り抜けるマラケシュへの自由な往来を許可すると共にキリスト教徒に敵対する将来的援助を約束する、という合意によって終了した。彼らの帰路はアトラス山脈で吹雪に見舞われ、軍隊と戦利品の一部である約3000のテントが破壊された。腹立ちまぎれに、イスマーイールは自分に帯同していた者達への制裁として、この災害とは何の関係もなかったワズィールでさえも処刑した。 モロッコ統一を成し遂げた後、イスマーイールは国内でキリスト教の存在を終わらせることを決定した。まず彼はタンジェの街を奪還する軍事行動に着手した。この都市は元々ポルトガル領だったが、キャサリン・オブ・ブラガンザとチャールズ2世 (イングランド王)との結婚を経てイングランドの手にわたり、以来イングランド領となっていた。この都市は強力に要塞化され、兵士4000人の大規模駐屯地もあった。イスマーイールは自分の最も信頼する将軍の一人アリ・ベン・アブドゥッラー・エル=リッフィーを任命して、1680年にタンジェを包囲した。タンジェでイングランド軍は抵抗したが、駐屯地の維持費が高いという顛末により、彼らは1683年冬にこの都市を放棄して自分達の要塞と港を取り壊すことに決めた。1684年2月5日にモロッコ軍がこの都市に入った。 1681年、まだタンジェ包囲継続中にイスマーイールは軍の別動隊を派遣し、ラ・マモラの街(現:マーディア)を征服した。この都市は1614年以降モロッコの混乱期にスペイン人によって占領されていた。イスマーイールは水源のないこの街を包囲し、市内にいるスペイン移民全員を含めてそこを占領した。司令官オマールは、無条件降伏すれば奴隷に売られることはない「ただし捕虜となるが、最初の贖いまで働かずに日々を過ごすことになる」とスペイン移民に伝えた。しかしながら、イスマーイールにはオマールの約束を尊重する理由がなくラ・マモラの捕虜に贖いを許すつもりもなかったため、「哀れな少女と女性」50人を含む彼らは戦利品として武器や大砲などの所持品と一緒にメクネスまで歩くことを強要された。一説によれば、これらの武器類は「自分の王国に残っていたものよりも多かった」という。この都市はアル=マーディヤと改名された。 将軍達がこれら作戦を引き受けている間、イスマーイールは国家安定に焦点を当てた。ベニ・アムル人に対するシェルグ地方への遠征後、彼はアフメド・ベン・メレスがアルジェでトルコと別の合意を結んだことを知った。彼はまた、トルコ軍がタフナに接近していて既にベニ・スナッセンの領土に到達していることも知った。イスマーイールはすぐにアフメドと対峙するべく国の南部に大軍勢を派遣し、オスマン帝国に対する遠征を準備したが、トルコ軍が撤退したため実施されずに終わった。そこで彼は南に行軍して1683年にスースで甥と対峙、そこで4月に戦闘が起こった。25日間の戦闘後、アフメドはタルーダントに逃亡して守りを固めた。 同年6月11日の戦いでは2000人以上が命を落とし、アフメドやイスマーイール自身も手傷を負った。この衝突はラマダン(断食月)まで続いた。イスマーイールは2つの遠征を実施して、幾つかのベルベル地域を平定することに成功した · 。 イスマーイールがアトラス山脈でこれらの部族との戦いに専念している間に、アフメドはイスマーイールの帝国を情勢不安にするため兄弟のムーレイ・ハーランと同盟を築いた。1684-85年に、2人の反逆者がタルーダントとその内陸部を支配していることを知って、イスマーイールは直ちに街の包囲を実施した。アフメドが奴隷の一団を連れて聖域に向かうと、イスマーイールの兵士である数名のジララ部族に行く手を塞がれた。アフメドだと認識していなかったがジララ族は彼を襲撃し、短い戦闘が起きてアフメドが死亡する結果となった。スルターンの兵士たちがそれを認識したのは彼の死後1685年10月中旬のことで、イスマーイールは彼に葬儀を与えて埋葬するよう命じた。ムーレイ・ハーランは1687年4月まで抵抗を続け、サハラに逃げ込んだ。タルーダントの人々は虐殺され、街はフェズからの転居民で再び人口が増加した。イスマーイールの軍事司令官の多くがこの戦争で落命したが、この日以降スルターンの権力に逆らおうとする者はいなくなった。アフメドとイスマーイールとの戦争は13年に及ぶ戦闘を経て終結した。 イスマーイールは、1610年以来スペインの支配下にあったララーシュの街を奪還すべく、今度は推定3万-5万人規模の強力な軍隊を準備した。スルターンは1688年に計画を発表し、これがスペイン入植側に大砲200基と1500-2000人の兵士を備えた都市の強固な要塞化を強いらせた。軍事行動は1689年7月15日に始まり、包囲は8月に始まった。1689年11月11日にモロッコ軍がこの都市を最終的に占拠し、推定で死者1万人が犠牲となった。モロッコ軍は将校100人と大砲44基を含む1600人のスペイン兵士を捕虜にした。スペイン軍はこの戦いで兵士400人を失った。虜囚交換はモロッコ10人に対して将校1人の割合で手配されたため、将校100人はモロッコの虜囚1000人と交換になった。イスラム教に改宗した者を除き、残りのスペイン駐留兵は奴隷としてメクネスに投獄され続けた。勝利のお祝いとして、イスマーイールは黒い靴の着用(1610年にスペイン人がララーシュを初めて獲得した際、彼らがモロッコに導入したとされる慣習)を禁止する布告を出した。フェズのムフティーはこの勝利に大喜びした。 ララーシュの征服直後、イスマーイールは新たな司令官を派遣してアシラーを包囲した。疲弊したスペイン駐屯軍が海路にてこの都市を脱すると、モロッコ軍が1691年にこの街を占領した。 1692-93年に、イスマーイールは最後に残った未征服部族に対して非常に大規模な遠征を組織した。これらは中アトラス西部地域にいるベルベル人達のサンハジャ・ブラベル部族だった。これら部族がブレド・エ=シバ(スルタンの権威を受け入れなかった地域)の最終孤立地帯を形成していた。イスマーイールの軍隊は非常に大規模で、迫撃砲、バリスタ (兵器)、大砲、その他の包囲兵器を備えていた。一方、モロッコ軍はアデクサンに集まった。イスマーイールは自軍を三集団に分けた。 第一軍は歩兵25,000人でタドラからウエド・エル・アビドまで行軍した。 第二軍はタンテガランを占領しなければならなかった。第三集団はムールーヤ川上流域に結集した。未征服部族は、アイト・ウーマルー、アイト・ヤフェルマン、アイト・イスリの民で構成されていた。彼らは、あらゆる砲撃を活用してベルベル人の反乱軍を打ち破るイスマーイールによって包囲された。凄惨な戦いの後、ベルベル人は散り散りになって渓谷や谷間に逃げ込んだ。3日に及ぶ追跡の後、スルターンによってベルベル人12,000人が捕虜となり、馬1万頭と銃3万挺が戦利品として鹵獲された。イスマーイールはこの時点でモロッコ全体を征服し、国内全ての部族に自分の権威を認めさせた。彼はこれを達成したアラウィー朝最初のスルターンだった。彼は全国に数十もの要塞を建設することで占拠した地域の防衛を迅速に組織した。これは中央権力が遠方地域に行きわたる助力となった。この勝利をもってモロッコ征服は終結した。1693年、アフマド・イブン・カリド・アル=ナシリによると、 スルターンはモロッコのマグリブ部族に馬も武器も残さなかった。黒人親衛隊、ウダヤ、アイト・イムール(ジャイシュ部族)、リファン達だけで、フェズ市民はセウタに対して聖戦を開始した。 ゲルール人はこれを激しい方法で学んだ。シジルマサへの道中、ジズ川の上流で襲撃を行ったこの部族の兵士数人がイスマーイールの注意を引いた。 彼はカイードの一人に彼らの虐殺を命じた。 アル=ナシリの著書『Al-Istiqsa』によると、イスマーイールは騎手1万人を討伐隊に提供し、その指揮官に「ゲルール人を襲撃して、兵士それぞれの首級を持ち帰ってくるまで、お前は戻って来るな」と伝えたという。そこで彼らは出発すると、できるだけ多くのゲルール人を殺し、その野営地を略奪した。 彼は追加の首級を持ち帰った人物に10ミスカール(約46gの貴金属)を出した。 最終的に彼らは12,000人分を集めた。 スルターンはこれに非常に満足し、征服したばかりのアイト・ウーマルーやアイト・ヤフェルマンの領土もこの指揮官に組み入れた。 サレのフランス領事ジャン=バティスト・エステルは、1698年に大臣のトルシー侯爵に手紙を書いている。 ...このシャリフによる帝国の広大な現領土は、地中海からセネガル川まで単一の共同体です。そこに住む人々は、北から南までそのスルターンに金銭(Gharama)を納めるムーア人です。 最盛期に、モロッコ軍は黒人親衛隊に10万人から15万人の黒人兵士を擁しており、他にもウダヤのジャイシュは数千人規模、兵士の提供と引き換えに土地と奴隷を受け取ったヨーロッパ人の(イスラム)改宗した封臣などもいた。
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