帝国の安定化とは? わかりやすく解説

帝国の安定化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 23:13 UTC 版)

ムーレイ・イスマーイール」の記事における「帝国の安定化」の解説

1678年から1679年にかけて、ムーレイ・イスマーイールアムール山脈越えてシェルグ地方への遠征試みアラブ部族大部隊がそれに帯同した。この遠征での戦いでトルコ大砲全てアラブ部族徴集されスルターンオスマン帝国モロッコ境界をタフナに設置せざるを得なくなったイスマーイールは引き返して帰還するウジダ再建した1678年遠征終えると、彼は帝国南部スースやトゥアットから現在のモーリタニアにあるシャルギ州まで)を再編成した移動中にイスマーイールはカイードとパシャ任命し、これら地域自分支配力誇示するべく砦とリバート建設命じた。この遠征中、スルターンは国のサハラ地方にいる全てのマキル部族遊牧民)からの使節団受け入れ国土セネガル川まで拡大したトンブクトゥのパシャリク(行政府)に対すモロッコ支配1670年確立されイスマーイール治世中ずっと続いた。 1678-1679年のラマダン終わり頃、イスマーイール兄弟3人(ハーランハシェムアフメド)と従兄弟3人がアイットアッタのサンハジャ連合やトゥドラ渓谷部族およびダデス渓谷部族助け借りて反乱起こしたイスマーイールは大規模な遠征開始し続けてすぐにフェルクラ、ゲリア、トゥドラ、ダデスを占領した反乱部族オアシス放棄してアンティアトラス山脈東部のジュベル・サジェロに逃亡した1679年2月3日大軍擁するイスマーイールは、ジュベル・サジェロで困難な戦い繰り広げた重傷者にはモロッコ軍指揮官フェズから参戦した兵士400人が含まれ、それは部分的敗北だった。この 戦いは、反乱部族がタフィラルト市民反乱部族サハラ領土通り抜けるマラケシュへの自由な往来許可すると共にキリスト教徒敵対する将来的援助約束する、という合意によって終了した。彼らの帰路アトラス山脈吹雪見舞われ軍隊戦利品一部である約3000テント破壊された。腹立ちまぎれに、イスマーイールは自分帯同していた者達への制裁として、この災害とは何の関係もなかったワズィールでさえも処刑したモロッコ統一成し遂げた後、イスマーイールは国内キリスト教存在終わらせることを決定した。まず彼はタンジェの街を奪還する軍事行動着手した。この都市は元々ポルトガル領だったが、キャサリン・オブ・ブラガンザチャールズ2世 (イングランド王)との結婚経てイングランドの手にわたり、以来イングランドとなっていた。この都市強力に要塞化され、兵士4000人の大規模駐屯地もあった。イスマーイールは自分の最も信頼する将軍一人アリ・ベン・アブドゥッラー・エル=リッフィー任命して1680年タンジェ包囲したタンジェイングランド軍は抵抗したが、駐屯地維持費が高いという顛末により、彼らは1683年冬にこの都市放棄して自分達の要塞と港を取り壊すことに決めた1684年2月5日モロッコ軍がこの都市入った1681年、まだタンジェ包囲継続中イスマーイールは軍の別動隊派遣し、ラ・マモラの街(現:マーディア)を征服した。この都市1614年以降モロッコ混乱期スペイン人によって占領されていた。イスマーイールは水源のないこの街包囲し市内にいるスペイン移民全員含めてそこを占領した司令官オマールは、無条件降伏すれば奴隷売られることはない「ただし捕虜となるが、最初贖いまで働かず日々を過ごすことになる」とスペイン移民伝えたしかしながらイスマーイールにはオマール約束尊重する理由がなくラ・マモラの捕虜贖いを許すつもりもなかったため、「哀れな少女女性50人を含む彼らは戦利品として武器大砲などの所持品一緒にメクネスまで歩くことを強要された。一説によれば、これらの武器類は「自分王国残っていたものよりも多かった」という。この都市アル=マーディヤ改名された。 将軍達がこれら作戦引き受けている間、イスマーイールは国家安定焦点当てた。ベニ・アムル人に対するシェルグ地方への遠征後、彼はアフメド・ベン・メレスがアルジェトルコ別の合意結んだことを知った。彼はまた、トルコ軍がタフナに接近していて既にベニ・スナッセンの領土到達していることも知ったイスマーイールはすぐにアフメド対峙するべく国の南部大軍勢を派遣しオスマン帝国対す遠征準備したが、トルコ軍撤退したため実施されずに終わった。そこで彼は南に行軍し1683年スースで甥と対峙、そこで4月戦闘起こった25日間の戦闘後アフメドタルーダント逃亡し守り固めた同年6月11日戦いで2000人以上が命を落としアフメドイスマーイール自身手傷負った。この衝突ラマダン断食月)まで続いたイスマーイールは2つ遠征実施して幾つかのベルベル地域平定することに成功した · 。 イスマーイールアトラス山脈でこれらの部族との戦い専念している間に、アフメドイスマーイール帝国情勢不安にするため兄弟のムーレイ・ハーランと同盟築いた。1684-85年に、2人反逆者タルーダントその内陸部を支配していることを知ってイスマーイールは直ちに街の包囲実施したアフメド奴隷一団連れて聖域に向かうと、イスマーイール兵士である数名のジララ部族行く手塞がれた。アフメドだと認識していなかったがジララ族は彼を襲撃し、短い戦闘起きてアフメド死亡する結果となったスルターン兵士たちがそれを認識したのは彼の死後1685年10月中旬のことで、イスマーイールは彼に葬儀与えて埋葬するよう命じた。ムーレイ・ハーランは1687年4月まで抵抗続けサハラ逃げ込んだタルーダント人々虐殺され、街はフェズからの転居民で再び人口増加したイスマーイール軍事司令官多くがこの戦争落命したが、この日以降スルターン権力逆らおうとする者はいなくなったアフメドイスマーイールとの戦争13年に及ぶ戦闘経て終結したイスマーイールは1610年以来スペイン支配下にあったララーシュの街を奪還すべく、今度推定3-5万規模強力な軍隊準備したスルターン1688年計画発表し、これがスペイン入植側に大砲200基と1500-2000人の兵士備えた都市強固な要塞化を強いらせた。軍事行動1689年7月15日始まり包囲8月始まった1689年11月11日モロッコ軍がこの都市最終的に占拠し推定死者1万人が犠牲となったモロッコ軍将校100人と大砲44基を含む1600人のスペイン兵士捕虜にした。スペイン軍はこの戦いで兵士400人を失った虜囚交換モロッコ10に対して将校1人割合手配されたため、将校100人はモロッコ虜囚1000人と交換になったイスラム教改宗した者を除き残りスペイン駐留兵は奴隷としてメクネス投獄され続けた勝利お祝いとして、イスマーイールは黒い靴着用1610年スペイン人ララーシュ初め獲得した際、彼らがモロッコ導入したとされる慣習)を禁止する布告出したフェズムフティーはこの勝利大喜びした。 ララーシュ征服直後イスマーイールは新たな司令官派遣してアシラー包囲した疲弊したスペイン駐屯軍海路にてこの都市脱すると、モロッコ軍1691年この街占領した。 1692-93年に、イスマーイールは最後に残った征服部族に対して非常に大規模な遠征組織した。これらは中アトラス西部地域にいるベルベル人達のサンハジャ・ブラベル部族だった。これら部族がブレド・エ=シバスルタン権威受け入れなかった地域)の最終孤立地帯形成していた。イスマーイール軍隊は非常に大規模で、迫撃砲バリスタ (兵器)大砲その他の包囲兵器備えていた。一方モロッコ軍はアデクサンに集まったイスマーイールは自軍を三集団分けた第一軍歩兵25,000人でタドラからウエド・エル・アビドまで行軍した第二軍はタンテガランを占領しなければならなかった。第三集団はムールーヤ川上流域結集した。未征服部族は、アイト・ウーマルー、アイト・ヤフェルマン、アイト・イスリの民で構成されていた。彼らは、あらゆる砲撃活用してベルベル人反乱軍打ち破るイスマーイールによって包囲された。凄惨な戦いの後ベルベル人散り散りになって渓谷谷間逃げ込んだ3日に及ぶ追跡の後、スルターンによってベルベル人12,000人が捕虜となり、馬1万頭と銃3挺が戦利品として鹵獲された。イスマーイールはこの時点モロッコ全体征服し国内全ての部族自分権威認めさせた。彼はこれを達成したアラウィー朝最初スルターンだった。彼は全国数十もの要塞建設することで占拠した地域防衛迅速に組織した。これは中央権力遠方地域行きわたる助力となった。この勝利をもってモロッコ征服終結した1693年、アフマド・イブン・カリド・アル=ナシリによると、 スルターンモロッコマグリブ部族に馬も武器も残さなかった。黒人親衛隊、ウダヤ、アイト・イムール(ジャイシュ部族)、リファン達だけで、フェズ市民セウタに対して聖戦開始した。 ゲルール人はこれを激し方法学んだシジルマサへの道中ジズ川の上流で襲撃行ったこの部族兵士数人イスマーイール注意を引いた。 彼はカイードの一人に彼らの虐殺命じたアル=ナシリの著書『Al-Istiqsa』によると、イスマーイールは騎手1万人を討伐隊提供し、その指揮官に「ゲルール人を襲撃して、兵士それぞれの首級持ち帰ってくるまで、お前は戻って来るな」と伝えたという。そこで彼らは出発すると、できるだけ多くのゲルール人を殺し、その野営地略奪した。 彼は追加首級持ち帰った人物10ミスカール(約46gの貴金属)を出した最終的に彼らは12,000人分を集めたスルターンはこれに非常に満足し征服したばかりのアイト・ウーマルーやアイト・ヤフェルマンの領土もこの指揮官組み入れたサレフランス領ジャン=バティスト・エステルは、1698年大臣のトルシー侯爵手紙書いている。 ...このシャリフによる帝国広大な領土は、地中海からセネガル川まで単一共同体です。そこに住む人々は、北から南までそのスルターン金銭(Gharama)を納めるムーア人です。 最盛期に、モロッコ軍黒人親衛隊10万人から15万人黒人兵士擁しており、他にもウダヤのジャイシュは数千規模兵士の提供と引き換え土地奴隷受け取ったヨーロッパ人の(イスラム改宗した封臣などもいた。

※この「帝国の安定化」の解説は、「ムーレイ・イスマーイール」の解説の一部です。
「帝国の安定化」を含む「ムーレイ・イスマーイール」の記事については、「ムーレイ・イスマーイール」の概要を参照ください。

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