帝国の忠臣として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/10 18:11 UTC 版)
「カマルッディーン・ハーン」の記事における「帝国の忠臣として」の解説
1671年8月21日、カマルッディーン・ハーンは、ムガル帝国の中央アジア・トルコ系貴族ガーズィー・ウッディーンの息子として生まれた。 1708年以降のアウラングゼーブ帝没後の帝位継承においては、カマルッディーン・ハーンは全身全霊をもってファッルフシヤル帝を支えた武将として活躍した。 カマルッディーン・ハーンはその即位に尽力し、1713年1月12日にファッルフシヤルは彼に「王国を取り仕切る者」あるいは「皇帝の代理人」を意味する「ニザームル・ムルク」の称号を与えた(その語源はアラビア語に由来し、1600年頃にウルドゥー語となったものである)。 ファッルフシヤル帝は即位後、カマルッディーン・ハーンをデカン地方へと派遣した。この頃、彼は中央に税を納入しながらも、デカンにおいて自身の権力基盤を形成することとなった。 ファッルフシヤルがサイイド兄弟と対立したとき、1719年1月にカマルッディーン・ハーンにデリーに帰還する命令を出したがすでに遅く、2月にファッルフシヤルは廃位された。そのため、5月9日にミール・カマルッディーンはデカンを出陣し、同月25日にブルハーンプルに陣を構え、サイイド兄弟打倒の機会を狙った。 ファッルフシヤルがサイイド兄弟に廃されたのち、ラフィー・ウッダラジャート、ラフィー・ウッダウラと二人続いたのち、帝位を継承した皇帝ムハンマド・シャーを援助し、1720年末にサイイド兄弟を討伐した。 カマルッディーン・ハーンは皇帝ムハンマド・シャーにその功績を認められ、全幅の信頼を置かれるとともに、1722年2月8日に宰相の地位を与えられ、重用されることとなった。同年6月20日、彼はデカン総督に任命され、同地の所領を皇帝からの勅状(フィルマーン)により認められた。
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