帝国の支配をめぐるスフラとの対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 00:03 UTC 版)
「カワード1世」の記事における「帝国の支配をめぐるスフラとの対立」の解説
若く経験の浅いカワード1世は、王としての最初の5年間をスフラの後見の下で過ごした。この時期のカワード1世は単なる名目的な存在に過ぎず、スフラが帝国の事実上の支配者であった。イラン北部出身の歴史家であるタバリーは、以下のようにカワード1世が置かれていた状況を強調している。「スフラは帝国の行政と政務を取り仕切っていた… 人々はスフラの下を訪れ、スフラとのみ交際関係を持とうとした。人々はカワードを重要な立場の人物として扱わず、カワードの命令に軽蔑の念を抱いていた」。非常に多くの地方と支配層の代表者がカワード1世ではなくスフラに敬意を表し、スフラは王室の財政とペルシアの軍事を支配していた。493年にカワード1世は成年に達したため、スフラの支配に終止符を打つことを望み、スフラを彼の故郷であるペルシア南西部のシーラーズへ追放した。しかしながら、追放された状況でさえスフラは王冠を除くすべてを支配していた。また、スフラはカワード1世を王位に据えたのは自分であると豪語してもいた。 スフラが謀反を起こす可能性を警戒していたカワード1世は、スフラを完全に排除することを望んでいた。しかし軍はスフラに支配されており、サーサーン朝はパルティア時代以来の系譜を持つ自律的な貴族に軍事力の大部分を依存していたため、カワード1世はスフラの排除を実行するための人材を欠いていた。しかしカワード1世はミフラーン家の有力な貴族であり、スフラへの強硬な対立者であったシャープール・ラーズィー(英語版)(レイのシャープール)に解決策を見い出した。ミフラーン家はタバリスターンに基盤を持ち、レイがその地の主邑であった。シャープールはカワード1世旗下においてフトラーニヤ(Khutraniya)とバビロニア(現在のイラク南部)の総督であり、自前の軍事力を保有していた。シャープールはスフラに敵対する貴族を糾合することに成功し、シーラーズに進軍してスフラの軍隊を打ち破り、彼をサーサーン朝の首都クテシフォンの監獄へ投獄した。スフラは獄中においてでさえ影響力がありすぎると見なされたため、最終的に処刑された。この出来事は一部の主要な貴族の間で不快を持って受け止められ、カワード1世の王としての立場を悪化させる原因となった。また、カーレーン家の権勢が一時的に失われることになり、カーレーン家の一族は、クテシフォンのサーサーン朝の宮廷からは遠く離れたタバリスターンとザブーリスターン(英語版)に追放された。
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