パルティア時代
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アルサケス朝が直接支配した地域はクテシフォンと故地であるイラン高原東北部を結ぶラインであった。そのため、そのほかの地域にはスーレーン家のようなパルティア貴族やギリシア人都市など様々な独立勢力が跋扈しており、クテシフォンを中心とした中央集権とは程遠いものであった。また、パルティア人はもともと遊牧民であったため、君主がクテシフォンに常駐したわけではないようである。 クテシフォンはローマ帝国が東方を征服するときの軍事的な目標となった。クテシフォンはローマ帝国(または東ローマ帝国)により5回占領されたが、そのうち3回は紀元2世紀のことである。ローマ皇帝トラヤヌスは116年にクテシフォンを占領したが、ユダヤ人の反乱が勃発したこともあり、その後継者ハドリアヌスはパルティアに返還した。この時のパルティア政府機能がどこにあったのかは不明である。ローマの将軍アウィディウス・カシウスは164年、対パルティア戦争の間にクテシフォンを占領したが、和平により放棄した。197年、ローマ皇帝セプティミウス・セウェルスはクテシフォンを略奪し、数千人(おそらく最大で1万人)の住人を連れ去って奴隷とした。
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パルティア時代
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アッシュル市はパルティア時代、特に前150年から後270年にかけて復活し、再定住が行われてパルティアが支配するアスーレスターン(英語版)の中心地となっていった。アッシリア学者シモ・パルポラ(英語版)とパトリシア・クローン(英語版)はアッシュル市がこの時代に完全に独立していた可能性を示唆している。Beth Garmai、Beth Nuhadra、そしてアディアベネのような他の政治体もまた、パルティアのアッシリアに対する支配が緩く、断続的であったという事実故に繁栄した。 パルティア時代のアッシュルは重要な行政センターであり、旧市街の北に新たな行政建造物群が建設され、南に宮殿が建てられた。この宮殿は1世紀頃に建設されたもので、方形の中庭に向けて4つのイーワーンを開口させる後世のペルシア建築における四イーワーン形式のプロトタイプとも見ることができる平面プランを持っており、また数少ないパルティア建築の重要な遺構でもある。また、アッシリアの国家神アッシュルに捧げられていた古い神殿は他のアッシリアの神々の神殿と同じように西暦2世紀に修復された。アッシュルの遺構で発見されたアッシリアの東アラム語(シリア語)の碑文によって、アッシリアが独自のシリア語文書を持つことが明らかになるとともに、パルティア時代の都市の情報がもたらされた。パルティア後のシリア語文書は、文法および構文においてエデッサとオスロエネ(英語版)州の各地から見つかっている文書と同一であった。 ドイツの考古学者クラウス・ベイヤー(Klaus Beyer)はアッシュル、ドゥラ・エウロポス、ハトラ、ガッダラ(英語版)、ティクリート、そしてトゥル・アブディン(英語版)を含むメソポタミアの都市と町から発見された600以上の碑文を公刊している。パルティア時代にキリスト教がアッシリア人全体に広まり始めたとしても、アッシュル、ネルガル、シン、イシュタル、そしてシャマシュといった神々への呼びかけを含む碑文によって証明されるように、元来のアッシリア文化と「宗教」はしばらくの間生き残っていた。このことは同様に、次のようなアッシリアの神々を指す構成要素を持つ名前の市民への言及によっても証明される。 アッシュル・ヘル(Assur-ḥēl:アッシュル(は)我が力) アッシュル・エマル(Assur-emar:アッシュルはお命じになった) アッシュル・ンタン(Assur-ntan:アッシュルは(息子を)与えて下さった) アッシュル・シュマ(Assur-šma:アッシュルはお聞きくださった。) このようなアッシュル神を始めとしたアッシリアの神々の名を負った人名は、その後サーサーン朝(226年-651年)時代までアラム語とギリシア語の文書に登場し続け、その文化的継続性を証明している。ただし、かつてのアッシリア人の人名はアッシリア語(アッカド語)によるものであったが、この時代の人名は神名以外はアラム語であり、もはや彼らがアッシリア語を日常の言語としていないことを証明している。ほかにシェルア(Sherua)、イシュタル、ナナヤ(Nanaya)、ナブー、ネルガルといった神々は、アッシュル市において3世紀初頭まで崇拝され続けていた。 ローマ人の歴史家フェストゥス(英語版)は、トラヤヌスが116年にエウフラテス(ユーフラテス)東方の征服によって、メソポタミアとアッシリアという新たなローマの属州を作ったことを、370年頃に記述している。このうちアッシリア属州の実在はクリス・S・ライトフット(Chris S. Lightfoot)とファーガス・ミラーによって疑問視されている。いずれにせよ、属州が建設されたと見受けられる時点から僅か2年後、トラヤヌスの後継者ハドリアヌスはトラヤヌスがパルティアから奪った東方の征服地を返還し、平和と友好の中で過ごすことを望んだ。 後にルキウス・ウェルスとセプティミウス・セウェルスの下でローマがメソポタミアに侵攻し、彼らはローマの属州としてメソポタミア属州とオスロエネ(英語版)を設置した。
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