パルティア内戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/07 02:59 UTC 版)
ローマ風の習慣、教養を身に付けていたヴォノネス1世は、パルティアに帰国した後ローマ風の文化をパルティアに持ち込み親ローマ的政策を取った。また国内のギリシア人ポリスに強く配慮し、ギリシア人の地位を向上させた。このような政策はパルティアの伝統的大貴族から大きな反発を買うに十分であり、東部領土を拠点とした大貴族達はアルサケス氏族の母をもっていたアトロパテネ王アルタバノス2世を担ぎ上げてヴォノネス1世に対して反乱を起こした。 ヴォノネス1世はローマやギリシア人ポリスを、アルタバヌス2世は大貴族や中央アジアの遊牧民をそれぞれ支持基盤とし、4年にわたる内戦を戦った。当初ヴォノネス1世は優勢であり、バビロニア方面の支配権を固めたが、東部領土に逃げ込んだアルタバヌス2世の反撃を受けて敗北し、西暦12年頃、アルタバヌス2世に王位を奪われた。ヴォノネス1世はアルメニア王国へ移ってアルメニア王位を確保したが、アルタバヌス2世はアルメニアの有力者達にヴォノネス1世を排除するように圧力をかけた。ヴォノネス1世はローマの支援を期待したが、ローマはゲルマニアでの敗北以後対外消極策に転じており、ヴォノネスに援軍を送ることはなかった。こうして西暦15年にはアルメニアからも追放され、ローマ支配下のシリアに逃亡した。しかしローマでは彼は囚人として扱われた。後にキリキアへと移されたが、西暦19年にそこで逃走を図って殺害された。 先代: オロデス3世 パルティア王国の君主 6年 - 12年 次代: アルタバノス2世 先代: エラト アルメニア王 12年 - 15年 次代: オローデス
※この「パルティア内戦」の解説は、「ヴォノネス1世」の解説の一部です。
「パルティア内戦」を含む「ヴォノネス1世」の記事については、「ヴォノネス1世」の概要を参照ください。
- パルティア内戦のページへのリンク