アルメニア王
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/08 05:42 UTC 版)
1342年、アモーリーの息子ギー・ド・リュジニャンはアルメニア王に選ばれ、コスタンディン4世を名乗った。摂政オシン・コリコスが前王を毒殺し、ギーの母と2人の兄弟を殺害したとの噂から、ギーは当初は王位に就くことに乗り気ではなかった。コスタンディンの主導で、リュジニャン家はアルメニア人にカトリック信仰とヨーロッパ的な生活を強制した。アルメニア人指導者たちは広くこれを受け入れたが、農民はこの変化に反発した。最終的に、これは市民の衝突を招いた。コスタンディンは1344年、暴動により殺害され、王位は遠戚のコスタンディン5世の手に渡った。コスタンディンは王位継承権を持つ親族を全て取り除くため殺害を試みたが、それら親族はキプロスに逃亡した。
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