アルメニア史料による記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 02:04 UTC 版)
「統葉護可汗」の記事における「アルメニア史料による記述」の解説
以下の記録は、共に東ローマ帝国側の歴史家(西洋史)であるセベオス(英語版)とモヴセス・カガンカトヴァツィ(英語版)による。 当時、アルメニアはen:Marzpanate Armenia期と呼ばれ、東ローマ帝国とサーサーン朝の支配下に分断されていた。 アルメニアの歴史家セベオス(英語版)の伝えるところによれば、サーサーン朝が東ローマ帝国と戦争になると619年に30年ぶりに西突厥が大ホラサーン(en)のトゥースに攻めこみ第二次ペルソ・テュルク戦争(英語版)がおこった。初戦で撃退された西突厥軍は援軍を要請し、可汗は30万の援軍を送った。Datoyan王子の守るトゥース要塞を落し、エスファハーンまで進軍して撤退を開始した。バグラトゥニー朝(英語版)のSmbatは、東ペルシアで兵を集め、撤退途中の西突厥軍の指揮官を殺した。その結果、西突厥軍の統制が失われ、バグラトゥニー軍からさらに大損害を被った。 アルメニアの歴史家モヴセス・カガンカトヴァツィ(英語版)によれば、東ローマ・サーサーン戦争 (602年-628年)への介入戦争である第三次ペルソ・テュルク戦争 (627年-629年)において南コーカサスのデルベントを包囲した。次いで東ローマ帝国とハザールの連合軍はトビリシを陥落させた。裏で行なわれていたニネヴェの戦い (627年)が中東の軍事バランスを変えたことによってイスラーム教徒のペルシア征服 (633年-644年)が成功した。
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