アルメニア外相として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/17 02:51 UTC 版)
「ラッフィ・ホヴァニスィアン」の記事における「アルメニア外相として」の解説
ソビエト連邦からアルメニアが独立した直後の1991年10月7日、ホヴァニスィアンは初代外務大臣(英語版)に指名され、翌1992年3月2日にはアルメニア外相として、ニューヨークの国連本部ビルにアルメニアの国旗を掲げた。だが、同時にホヴァニスィアンは、アルメニア人虐殺の承認(英語版)をトルコに行わせ、補償を得るという在外同胞の宿願に強く固執した。これは、ナゴルノ・カラバフ戦争の対処に追われ、これ以上の対外関係悪化を望まなかったレヴォン・テル=ペトロシャン大統領との対立を招き、ホヴァニスィアンは同年10月16日には辞任に追い込まれた。しかし、辞任直前の同年9月に『ロサンゼルス・タイムズ』が報じたところによれば、ホヴァニスィアンの支持率は98パーセントとテル=ペトロシャンを遥かに上回るものであり、エレヴァンに失業者の間でもホヴァニスィアンの支持は高いものであったという。
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