アルメニア継承問題とローマの介入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/08 14:31 UTC 版)
「アルタバノス2世」の記事における「アルメニア継承問題とローマの介入」の解説
アルメニア王ゼノンが死去するとアルメニアに自分の息子アルサケスを派遣して王位につかせた。この処置はアルメニアの有力者達の反発を買い、アルメニアの反パルティア派はローマの支援を求めた。ローマはイベリア王国を炊きつけてアルメニアを攻撃させ、アルサケスを殺害した他、アラン族も扇動してパルティアに侵入させた。更にローマの将軍ルキウス・ウィテッリウスの政治工作の結果、西部領土(特にギリシア人やバビロニア人の間で)反アルタバノス2世の機運が高まった。ローマはフラーテス4世の時代に人質として送られていたヴォノネス1世の弟の息子ティリダテス3世を派遣し、彼はローマの支持の下でパルティア王を名乗った(西暦35年)。このためアルタバノス2世はヒルカニアへと落ち延びた。 こうして再び誕生した親ローマの風潮は、当然の如くパルティアの貴族達にとっては警戒すべきものであった。大貴族の1つダハェはアルタバノス2世に軍事援助を行った。これによってアルタバノス2世は勢力を盛り返し、再び西部領土に向かい、西暦36年にティリダテス3世を追放して西部領土を回復し、ローマと協定を結んで国境に一応の安定を齎した。
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