アルメニアの衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/08 05:42 UTC 版)
ピエール1世の死後、アルメニア王コスタンディン6世は、かつてピエールの敵であったエジプトのスルタンと同盟を結ぼうと考えた。このことはアルメニア貴族を怒らせ、1373年にコスタンディン6世は暗殺された。1374年、レヴォン6世がアルメニア王に即位した。レヴォンはコスタンディン5世から逃れキプロスで育ち、ピエール1世が創設した剣騎士団の騎士となっていた。1375年、アルメニアはマムルークの侵略を受け、レヴォンは降伏を余儀なくされ、3世紀にわたる中世アルメニアの完全な独立統治体制が終わった。アルメニア王位は従兄弟キプロス王ジャック1世が主張し、キプロスおよびエルサレム王位と統合した。レヴォンとその家族は数年間カイロで捕虜となった後、カスティーリャ王 フアン1世が身代金を支払って受け戻しレヴォンをマドリッド卿に任じた。レヴォンは十字軍結成のための支援を集めるのに失敗した後、パリで1393年に死去した。
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