キプロス王国
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キプロス王国(キプロスおうこく)は、中世のキプロス島を支配したラテン系の王国で、十字軍国家の一種である。第3回十字軍の際に十字軍に征服され、その後はエルサレムから追われた十字軍国家・エルサレム王国の末裔が統治した。
- ^ Pseudo-Benedict of Peterborough. “How Richard, king of England, seized and conquered Cyprus”. cyprusexplorer.globalfolio.net. 2012年8月15日閲覧。
- ^ John Gillingham (1999), Richard I, Yale University Press, p. 152.
- ^ a b Coureas, Nicholas (2005). “Economy”. In Nicolaou-Konnari, Angel; Schabel, Chris. Cyprus: Society and Culture 1191-1374. BRILL. pp. 103–104
- 1 キプロス王国とは
- 2 キプロス王国の概要
- 3 歴史
- 4 経済
- 5 歴代君主
- 6 参考文献
キプロス王
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ムスリムとのさらなる6年の停戦期間の後には、エメリーをはじめとした王族はほとんど死去していた。エメリーの唯一生き残っていた息子ユーグ1世は1205年にキプロス王となったが、エルサレム王位はイザベルとコンラートとの間の長女マリーの手に渡った。ユーグは義理の妹で、イザベルとシャンパーニュ伯アンリ2世との間の娘アリスと結婚し、3人の子を儲けた。末子で唯一の男子であるアンリは1218年に生後8か月で王位につき、生母アリスが摂政となった。しかし実際にはアリスの叔父(母イザベルの異父弟)フィリップ・ディブランおよびその兄ジャン・ディブランが政治を担った。 1225年、アンリが8歳の時、ニコシアの聖ソフィア大聖堂で戴冠した。この幼くしての戴冠は、皇帝フリードリヒ2世が権力を手に入れようとしていることを察知した大叔父ジャン・ディブランの政治的策略であった。1228年、それは実際に起こり、フリードリヒ2世はジャン・ディブランから摂政の座およびキプロス島を奪った。しかし、フリードリヒが4月に島を去った時、ジャンは権力を奪還するため反撃し、ロンバルド人の戦い(War of the Lombards)が起こった。アンリは1232年、15歳で親政を開始したとみられる。1246年から1253年まで、アンリは若いコンラート4世のため、エルサレム摂政をつとめた。アンリは3度結婚したが息子を1人得たのみで、その息子ユーグ2世が1253年のアンリ1世の死後、生後2か月で王位を継承した。ユーグ2世は1267年に14歳で死去し、第一リュジニャン家は断絶した。
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