王位請求の起源
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 05:30 UTC 版)
「エルサレム国王一覧」の記事における「王位請求の起源」の解説
1291年の王国滅亡後も多くのヨーロッパの支配者達がエルサレム王位請求の正当な相続人として主張してきた。 ブリエンヌ伯ユーグ(英語版)はエルサレム王国の摂政を請求し、キプロス王ユーグ1世とイザベル1世の二番目の娘アリス・ド・シャンパーニュの年長の相続人として1264年に間接的にこの地位を継承した。ユーグの地位は有力者会議(英語版)によって自らが支持するユーグの従兄弟である将来のキプロス王ユーグ3世の手に渡った(エルサレム国王ユーグ1世)。 ブリエンヌ家による請求(英語版)は続いたが、一族は後にウトラメールに関心を持たなくなった。 王国滅亡後もアンリ2世はエルサレム国王の称号を使い続けた。アンリ2世没後はこの称号は直接の相続人であるキプロス王が請求した。 エルサレム国王の称号はまたマリー・ド・アンティオキア(英語版)から王位請求権を得たカルロ1世を祖とするアンジュー=シチリア家のナポリ王が継続的に用いていた。それ故にこのエルサレム王国の請求権はナポリ王位に付属するものとして扱われていたが、これらは直接の相続よりも遺言ないしは征服によって大概所有主が変わった。ナポリ王国はローマ教皇の封土であり、ローマ教皇はナポリ王位と同様にエルサレム王位を保証し、エルサレム王位請求の歴史はナポリ王位請求の歴史とも重なる。
※この「王位請求の起源」の解説は、「エルサレム国王一覧」の解説の一部です。
「王位請求の起源」を含む「エルサレム国王一覧」の記事については、「エルサレム国王一覧」の概要を参照ください。
- 王位請求の起源のページへのリンク