エルサレム国王 (1099年–1291年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 05:30 UTC 版)
「エルサレム国王一覧」の記事における「エルサレム国王 (1099年–1291年)」の解説
エルサレム王国の起源は第1回十字軍に遡る。この時の1099年にゴドフロワ・ド・ブイヨンはAdvocatus Sancti Sepulchri (聖墓守護者)の称号を得てベツレヘムの降誕教会で エルサレムの支配者として戴冠した。後年、弟のボードゥアン1世は初めて王の称号を使用し、エルサレムの聖墳墓教会で戴冠した。 エルサレムの国王の地位は一部は選出により、一部は世襲により継承されてきた。王国の全盛期であった12世紀半ばには、王室には比較的に明白な継承法があった。それにも係わらず、国王は有力者会議(英語版)によって選ばれるか、最低でも認められた。そこでは国王は「同輩者中の第一人者(英語版)」と見做され、国王不在の時はその任務は国王の執事[要リンク修正]によってなされた。 王宮はダビデの塔の要塞に置かれた。エルサレム王国はフランス王国における封建制の構造をレバントに導入した。国王は個人的に敷いた幾つかのレーエンを「領域[要リンク修正]」に組み入れ、それは国王が変わるたびに更新された。また、国王は戦闘の先頭に立つ責任があったが、この義務は軍司令官に渡った。 同時代の幾つかのヨーロッパの国々が君主の中央集権化に向かっている一方、執事の影響が大きくなり、エルサレム国王は、次第に力を失っていった。これは多くの国王が幼少だったのと貴族の等級から来る摂政の頻繁な交代が部分的な原因である。 1187年のエルサレム陥落後は王国の首都はアッコに移り、1291年まで存続したが、戴冠式はティルスで執り行われた。この期間中、国王の地位は、実際はアッコに住まないヨーロッパの君主が据えられるという単なる名目上の地位となった。若いコンラート3世が国王の称号を得て、ドイツ南部に住んでいた時、その父方の第二の従兄弟であるユーグ・ド・ブリエンヌ(英語版)はエルサレム王国の摂政を要求して間接的にコンラート3世の地位を継承した。王位請求権は女王イザベル1世の二番目の娘であるアリス・ド・シャンパーニュの年長の子孫且つ正当な相続人によって1264年に行われたが、ユーグ・ド・ブリエンヌはアリスの長女の息子だったのである。しかしながら王位は有力者会議によって自らが支持していたユーグ・ド・ブリエンヌの従兄弟であるアンティオキア侯ユーグ、後のキプロス王ユーグ3世に渡った(エルサレム国王ユーグ1世)。 1268年にコンラート3世がシャルル・ダンジューによって処刑された後、国王の称号は同時にキプロス王位についていたリュジニャン家によって保有された。しかしながら、1277年にシチリア国王 カルロ1世は王位継承権の権利を強く打ち出した。 この年、カルロ1世は自身の「代官[要リンク修正]」であるルッジェーロ・サンセヴェリーノ(英語版)を東方に派遣した。ルッジェーロはアッコを占領して伯爵達から忠誠の誓いを得た。ルッジェーロは1282年にシチリアの晩鐘のために呼び戻され、Odo Poilechien(ドイツ語版)を自らの代理として残した。ルッジェーロの遺産と権威は極最小限のものであり、アンリ2世がエルサレム国王として戴冠してキプロスから到着した時に追放された。なお、1291年にアッコがマムルーク朝によって占領されたことで十字軍はレバントの主要な土地から放逐された。 君主肖像画生誕結婚死去ゴドフロワ・ド・ブイヨン(聖墓守護者)1099年–1100年 1060年ブローニュ=シュル=メール, フランスないしベルギー, ブラバントブローニュ伯ウスタシュ2世(英語版)とイド・ド・ブローニュの息子 未婚 1100年7月18日40歳没 ボードゥアン1世1100年–1118年 1058年ロレーヌ, フランスブローニュ伯ウスタシュ2世(英語版)とイド・ド・ブローニュの息子 ゴデヒルド・ド・トニー子を儲けずアルメニア公女アルダ(英語版)1097年子を儲けずアデライード・デル・ヴァスト(英語版)1112年子を儲けず 1118年4月2日アリーシュ, エジプト約 60歳没 ボードゥアン2世1118年–1131年 ??フランスルテル伯ユーグ1世とメリザンド・ド・モンテリの息子 モルフィア・オブ・マラティア(英語版)1101年4人の娘を儲ける 1131年8月21日エルサレム メリザンド(英語版)1131年–1153年1143年以降はフルクと1143年以降はボードゥアン3世と共同統治 1105年エルサレムボードゥアン2世とモルフィア・オブ・マラティア(英語版)の娘 アンジュー伯フルク5世1129年6月2日2 人の子を儲ける 1161年9月11日エルサレム56歳没 フルク1131年–1143年メリザンドと共同統治 1089/1092年アンジェ, フランスアンジュー伯フルク4世(英語版)とベルトラード・ド・モンフォールの息子 エルメンガルド・ド・メーヌ(英語版)1109年4 人の子を儲けるメリザンド1129年6月2日2人の子を儲ける 1143年11月13日アッコ, エルサレム王国52歳没 ボードゥアン3世(英語版)1143年–1162年1153までメリザンドと共同統治 1130フルクとメリザンドの息子 テオドラ・コムネナ (エルサレム王妃)(英語版)1158年子を儲けず 1162年2月10日ベイルート, エルサレム王国 32歳没 アモーリー1世1162年–1174年 1136年フルクとメリザンドの息子 アニェス・ド・クルトネー(英語版)1157年3 人の子を儲けるマリア・コムネナ (エルサレム王妃)(英語版)1167年8月29日2人の子を儲ける 1174年7月11日エルサレム38歳 ボードゥアン4世 瘰癧王1174年–1185年1183年からボードゥアン3世と共同統治 1161年エルサレムアモーリー1世とアニェス・ド・クルトネー(英語版)の息子 未婚 1185年3月16日エルサレム24歳没 ボードゥアン5世1183年–1186年1185年までボードゥアン4世と共同統治 1177年ヤッファ伯・アスカロン伯グリエルモ・デル・モンフェッラート(英語版)とシビーユの息子 未婚 1186年8月アッコ, エルサレム王国9歳没 シビーユ1186年–1190年ギーと共同統治 1157年アモーリーとアニェス・ド・クルトネー(英語版)の娘 ヤッファ伯・アスカロン伯グリエルモ・デル・モンフェッラート(英語版)1176年子を儲けずギー・ド・リュジニャン1180年4月2人の娘を儲ける 1190年7月25日 (推定)アッコ, エルサレム王国約40歳没 ギー・ド・リュジニャン1186年–1190/1192年1190年までシビーユと共同統治 1150年ないし1159/1160年ユーグ8世・ド・リュジニャン(英語版)とブルゴーニュ・ド・ランソンの息子 シビーユ1180年4月2人の子を儲ける 1194年7月18日ニコシア, キプロス約45歳没 イザベル1世1190/1192年-1205年1192年までコンラートと1192年–1197年までアンリ1世と1198年からエメリー2世と共同統治 1172年ナーブルス, エルサレム王国アモーリー1世とマリア・コムネナ (エルサレム王妃)(英語版)の娘 オンフロワ4世・ド・トロン1183年11月子を儲けずモンフェラート侯コンラード1190年11月24日1人娘を儲けるシャンパーニュ伯アンリ2世1192年5月6日2人娘を儲けるキプロス王エメリー・ド・リュジニャン1198年1月3人子を儲ける 1205年4月5日アッコ, エルサレム王国 33歳没 コンラート1世1190/1192年–1192年イザベル1世と共同統治 1140年半ばモンフェラート, 神聖ローマ帝国モンフェッラート侯グリエルモ5世(英語版)とユーディト・フォン・バーベンベルク(英語版)の息子 不特定の女性1179年以前子を儲けずテオドラ・アンゲリナ1186/1187年子を儲けずイザベル1世1190年11月24日1人娘を儲ける 1192 年4月28日(暗殺される)アッコ, エルサレム王国40代半ば没 アンリ1世1192年–1197年イザベル1世と共同統治 1166年7月29日シャンパーニュシャンパーニュ伯アンリ1世とマリー・ド・フランスの息子 イザベル1世1192年5月6日2人の娘を儲ける 1197年9月10日アッコ, エルサレム王国31歳没 アモーリー2世1198年–1205年イザベル1世と共同統治 - 1145年ユーグ8世・ド・リュジニャン(英語版)とブルゴーニュ・ド・ランソンの息子 エシーヴ・ディブラン(英語版)(1160–1196)1174年10月29日以前6人の子を儲けるイザベル1世1198年1月3人の子を儲ける 1205年4月1日アッコ, エルサレム王国60歳没 マリーア1205年–1212年1210年までジャン1世と共同統治 1192年コンラート1世とイザベル1世の娘 ジャン・ド・ブリエンヌ1210年9月14日1人娘を儲ける 1212年20歳没 ジャン1世1210年–1212年マリーアと共同統治 1170年エラール2世・ド・ブリエンヌ(英語版)とアニェス・ド・モンフォーコンの息子 マリーア1210年9月14日1人娘を儲けるアルメニア公女ステファニー子を儲けずレオン王女ベレンガリア(英語版)1224年4人子を儲ける 1237年3月27日約67歳没 イザベル2世ないし ヨランダと呼ばれる1212年–1228年 1212年 ジャン1世とマリーアの娘 神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世1225年8月2人の子を儲ける 1228年4月25日アンドリア, 神聖ローマ帝国16歳没 コンラート2世1228年–1254年 1228年4月25日アンドリア, 神聖ローマ帝国フリードリヒ2世とイザベル2世の息子 エリーザベト・フォン・バイエルン(英語版)1246年9月1日1人息子を儲ける 1254年5月21日ラヴェロ, 神聖ローマ帝国26歳没 コンラート3世1254年–1268年 1252年3月25日ヴォルフシュタイン城, ランツフート, バイエルンコンラート2世とエリーザベト・フォン・バイエルン(英語版)の息子 未婚 1268年10月29日カステルデッローボ(卵城)(英語版), ナポリ16歳没 ユーグ(英語版)1268年–1284年 - 1235年アンティオキア公子アンリ(英語版)とキプロス王女イザベラ(英語版)の息子 イザベラ・ディブラン(英語版) 1255年1月25日以降11人の子を儲ける 1284年3月24日ニコシア, キプロス49歳没 ジャン2世1284年–1285年 - 1259/1267年ユーグとイザベラ・ディブラン(英語版)の息子 未婚 1285年5月20日ニコシア, キプロス17 ないし26歳没 アンリ2世1285年–1324年1291年以降は単なる称号 - ユーグとイザベラ・ディブラン(英語版)の息子 シチリア王女コンスタンツァ1317年10月16日子を儲けず 1324年8月31日ストロヴォロス(英語版), キプロス 53歳没
※この「エルサレム国王 (1099年–1291年)」の解説は、「エルサレム国王一覧」の解説の一部です。
「エルサレム国王 (1099年–1291年)」を含む「エルサレム国王一覧」の記事については、「エルサレム国王一覧」の概要を参照ください。
- エルサレム国王のページへのリンク