シチリアの晩鐘とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > デジタル大辞泉 > シチリアの晩鐘の意味・解説 

シチリアのばんしょう【シチリアの晩鐘】

読み方:しちりあのばんしょう

原題、(フランス)Lespres siciliennes》ベルディフランス語およびイタリア語によるオペラ。全5幕。パリ万国博のために作曲され1855年オペラ座初演13世紀末、フランス支配下シチリア島パレルモにおいて、フランス人虐殺され史実題材とする。シチリアの夕べの祈り


シチリアのばんしょう 【シチリアの晩鐘】

一二八二年の復活祭日曜日に、晩鐘合図に、シチリア島民がフランスアンジュー王家圧制に反対して兵士虐殺した事件(王は逃れた)。シチリアSicilia)はイタリア半島南端にある地中海最大の島(英語名シシリーSicily)。古代にはフェニキア・ギリシア・カルタゴ・ローマに占領され中世にはヴァンダル・ビザンチン・サラセン(イスラム)・ノルマン征服され一二世紀シチリアナポリ両シチリア王国成立一八六一イタリア帰属一九四八自治州早くからキリスト教入り四世紀には全島及んでいた。

シチリアの晩祷

(シチリアの晩鐘 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/03 21:51 UTC 版)

フランチェスコ・アイエツ画。シチリアの晩祷

シチリアの晩祷(シチリアのばんとう、Vespri siciliani)は、1282年シチリアで起こった住民暴動と虐殺事件。シチリアの晩鐘シチリアの夕べの祈りとも。

概要

当時シチリア王国は、ホーエンシュタウフェン家を断絶させたフランス王族であるアンジュー家シャルル・ダンジューが支配しており、イタリア系の住民の間には不満が鬱積していた。また、この時期にシャルル・ダンジューは姻戚関係から滅亡したかつてのラテン帝国相続権を主張、ローマ教皇とも組んで東ローマ帝国の征服を計画しており住民から強引な食料家畜の調達などを行い、これが住民の反発を更に強めたと言われる。

1282年3月30日に、アンジュー家の兵の一団がパレルモでシチリア住民の女性に暴行したことに怒った住民が暴徒化した。忽ちのうちに暴動はシチリア全土に拡大し、4000人ものフランス系の住民が虐殺された。また、東ローマ遠征用の艦艇も多数が破壊されたと言われる。この反乱によりシャルルが準備していた遠征計画は大きく狂った。

事件の発生した3月30日は復活祭の翌日に当たる月曜であり、教会の前には大勢の市民が晩祷(夕刻の祈り)を行うため集まっていた。彼らが暴動を開始したとき、晩祷を告げる鐘が鳴ったことから「シチリアの晩祷(晩鐘)」と称されるようになった。

シャルルと親しかったローマ教皇マルティヌス4世は、十字軍の作戦を妨害したとして全島民を破門にするという措置を取った。やがてシャルル側も反撃に出て暴動の鎮圧も時間の問題と思われたが、8月、突如アラゴン王国ペドロ3世(シャルルが敗死させたシチリア王マンフレーディの娘婿)がシチリアに上陸。シャルルの軍勢を破り、シチリアの王位に即位した[1]。このシチリア晩祷戦争以後、シチリア王国はペドロ3世のシチリアとシャルルのナポリ王国に分裂していった。

事件の背景

シャルルらと対立していた東ローマ皇帝ミカエル8世は後に「私はシチリア人に自由をもたらす神の道具である」と記している。しかしスティーブン・ランシマンは、東ローマの介入の有無に関わらず、この事件はパレルモ民衆がシャルルの野望を打ち砕いたものであると評価した[2]

芸術作品などへの影響

この事件はダンテ・アリギエーリジュゼッペ・ヴェルディ歌劇シチリア島の夕べの祈り』)など多くの文芸作品や芸術作品の題材となった。この暴動を起こした住民が口にした合言葉「Morte alla Francia Italia anela」(フランスに死を、これはイタリアの叫びだ)の各単語の頭文字が「マフィア」(mafia)の語源との説が、まことしやかに語られるほどセンセーショナルな事件だった[注釈 1]

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ この合言葉は文章的に不自然であるため、後世の創作である可能性が高い。イタリアの国語辞典には、シチリア方言の「乱暴な態度」が語源と記載されている。

出典

  1. ^ ヘレナ・アトレー 『柑橘類と文明 マフィアを生んだシチリアレモンから、ノーベル賞をとった壊血病薬まで』築地書館、2015年、93頁。ISBN 978-4-8067-1493-4 
  2. ^ Runciman, Sicilian Vespers, p. 256.

関連書籍

この節には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字が含まれています詳細

外部リンク


シチリアの晩鐘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 07:24 UTC 版)

ラッキー・ルチアーノ」の記事における「シチリアの晩鐘」の解説

10代の頃より商才発揮しイタリア人同士対立にはできる限り関与せず友人達中立立場にいた。しかし1920年後半ジョー・マッセリアサルヴァトーレ・マランツァーノの間のカステランマレーゼ戦争本格化すると、どちらかに付かざるを得ない状況になってきた。まずマランツァーノ一家誘ってくるが断る。その理由は「一緒に組んで良いが、ランスキーたちシチリア人でない人間組織からはずせ」という条件にあった申し出断ったことにより、ルチアーノマランツァーノ一家から暴行を受け、顔に傷跡が残るほどの重傷を負う。その後マッセリアと協定を結ぶ。しかし、この頃ルチアーノ武力相手押さえつけるマッセリアのやり方には何のメリットもないと感じていたし、シチリア人だけにこだわるマランツァーノ組織時代遅れだと思っていた。そのため彼ら旧時代のボスたちの時代を終わらせようと考えていた。 カステランマレーゼ戦争はマッセリアの勢力大きかったが、徐々にマッセリアの形勢不利になってくると、最後にマランツァーノ側につきマッセリアの暗殺加担する1931年4月15日午後にコニーアイランドイタリアン・レストラン「スカルパート」でルチアーノはマッセリアを食事誘い食後カードゲーム始めてしばらくするとトイレに行くため席を立ったその間に4人の殺し屋入って来てマッセリアを射殺した警察トイレ時間長かったことを聞かれルチアーノは、「俺は一度始まると、なかなか終わらないたちでね」と長小便習慣があると言い悪びれた様子無かったという。その後1931年5月ニューヨーク大ボスとなったマランツァーノジョゼフ・ボナンノらと、シカゴ行われたギャングスター会議出席する。この時のアル・カポネのことを「逮捕近かったせいか気が気ではなく顔が真っ青だった」と回想している。 その後、「シチリア人だけの組織」に固執したマランツァーノ暗殺するマランツァーノ危険分子であるルチアーノ消そう企んでいたが、ルチアーノその事内部情報知っており、先手打ったのであるその後48時間以内全米残った口髭ピート呼ばれる旧時代のボスたちを殺すか強制的に引退させた。これがシチリアの晩祷の夜といわれる事件である。しかし、ルチアーノによればそんな大量虐殺事実一切無いと言い警察記録でもほんの数人ギャング殺害されただけということになっている

※この「シチリアの晩鐘」の解説は、「ラッキー・ルチアーノ」の解説の一部です。
「シチリアの晩鐘」を含む「ラッキー・ルチアーノ」の記事については、「ラッキー・ルチアーノ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「シチリアの晩鐘」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「シチリアの晩鐘」の関連用語

シチリアの晩鐘のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



シチリアの晩鐘のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
中経出版中経出版
Copyright (C) 2025 Chukei Publishing Company. All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのシチリアの晩祷 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのラッキー・ルチアーノ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS