シチリアのばんしょう【シチリアの晩鐘】
シチリアのばんしょう 【シチリアの晩鐘】
シチリアの晩祷
(シチリアの晩鐘 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/03 21:51 UTC 版)
シチリアの晩祷(シチリアのばんとう、伊:Vespri siciliani)は、1282年にシチリアで起こった住民暴動と虐殺事件。シチリアの晩鐘、シチリアの夕べの祈りとも。
注釈
出典
- ^ ヘレナ・アトレー 『柑橘類と文明 マフィアを生んだシチリアレモンから、ノーベル賞をとった壊血病薬まで』築地書館、2015年、93頁。ISBN 978-4-8067-1493-4。
- ^ Runciman, Sicilian Vespers, p. 256.
- 1 シチリアの晩祷とは
- 2 シチリアの晩祷の概要
- 3 脚注
シチリアの晩鐘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 07:24 UTC 版)
「ラッキー・ルチアーノ」の記事における「シチリアの晩鐘」の解説
10代の頃より商才を発揮し、イタリア人同士の対立にはできる限り関与せず、友人達と中立の立場にいた。しかし1920年後半にジョー・マッセリアとサルヴァトーレ・マランツァーノの間のカステランマレーゼ戦争が本格化すると、どちらかに付かざるを得ない状況になってきた。まずマランツァーノが一家に誘ってくるが断る。その理由は「一緒に組んでも良いが、ランスキーたちシチリア人でない人間を組織からはずせ」という条件にあった。申し出を断ったことにより、ルチアーノはマランツァーノ一家から暴行を受け、顔に傷跡が残るほどの重傷を負う。その後マッセリアと協定を結ぶ。しかし、この頃ルチアーノは武力で相手を押さえつけるマッセリアのやり方には何のメリットもないと感じていたし、シチリア人だけにこだわるマランツァーノの組織は時代遅れだと思っていた。そのため彼ら旧時代のボスたちの時代を終わらせようと考えていた。 カステランマレーゼ戦争はマッセリアの勢力が大きかったが、徐々にマッセリアの形勢が不利になってくると、最後にはマランツァーノ側につきマッセリアの暗殺に加担する。1931年4月15日午後にコニーアイランドのイタリアン・レストラン「スカルパート」でルチアーノはマッセリアを食事に誘い、食後カードゲームを始めてしばらくするとトイレに行くため席を立った。その間に4人の殺し屋が入って来てマッセリアを射殺した。警察にトイレの時間が長かったことを聞かれたルチアーノは、「俺は一度始まると、なかなか終わらないたちでね」と長小便の習慣があると言い、悪びれた様子は無かったという。その後、1931年5月にニューヨークの大ボスとなったマランツァーノやジョゼフ・ボナンノらと、シカゴで行われたギャングスターの会議に出席する。この時のアル・カポネのことを「逮捕が近かったせいか気が気ではなく顔が真っ青だった」と回想している。 その後、「シチリア人だけの組織」に固執したマランツァーノも暗殺する。マランツァーノも危険分子であるルチアーノを消そうと企んでいたが、ルチアーノはその事を内部情報で知っており、先手を打ったのである。その後48時間以内に全米に残った口髭ピートと呼ばれる旧時代のボスたちを殺すか強制的に引退させた。これがシチリアの晩祷の夜といわれる事件である。しかし、ルチアーノによればそんな大量虐殺の事実は一切無いと言い、警察の記録でもほんの数人のギャングが殺害されただけということになっている。
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