シチリアの復興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 10:48 UTC 版)
「フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「シチリアの復興」の解説
1220年にフリードリヒはハインリヒを共同統治者としてローマ王の地位に置き、ハインリヒと顧問団にゲルマニアの支配を委ねてパレルモに戻った。フリードリヒは新教皇ホノリウス3世から十字軍の実行と引き換えに帝位を認められ、荒れ果てたシチリアの統治に取り掛かった。シチリアではゲルマニアとは逆に強権的な政策を布き、グリエルモ2世の死後にシチリアの都市と貴族に与えられていた特権を廃した。貴族の拠る城砦は破壊されて新たに皇帝直轄の城が建設され、自治都市には皇帝直属の行政官が派遣された。フリードリヒに反抗して自治を貫こうとしたメッシーナは弾圧を受け、教会にも帝国の介入が及んだ。 またフリードリヒの軍はシチリア南部で山賊行為をしていたイスラム教徒を討伐し、10,000人のイスラム教徒を捕らえた。フリードリヒは捕らえたイスラム教徒を新たに建設した都市ルチェーラに移住させ、彼らに自治を許した。フリードリヒに感謝したルチェーラの住民は軍事的協力を約束し、彼らは後にフリードリヒの指揮下で教皇派と戦うことになる。1224年には官僚の養成機関として、法学と修辞学を教授するナポリ大学が創立された。
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