シチリアの征服、1061年–1091年
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「ノルマン人による南イタリア征服」の記事における「シチリアの征服、1061年–1091年」の解説
中世イタリア・イスラム史(イタリア語版)、シチリア・イスラム史(イタリア語版)、ノルマン=アラブ=ビザンティン文化(英語版)も参照。 ノルマン人によって征服された当時のシチリアは、大部分にギリシャ正教徒が住んでいて、サラセン人の支配下におかれていた。同島は元来、アグラブ朝、そしてファーティマ朝の支配下におかれていたが、948年にカルビ朝(イタリア語版)がファーティマ朝から島の支配権を無理矢理もぎ取り1053年までその状態においた。1010年代と1020年代にイフリーキヤのズィール朝による干渉によって連続した継承危機が始まった。弱小の封建領主が互いに支配権を巡って争ったことでシチリアは混乱に陥った。この混乱状況の中をシチリア征服の意志を抱いたロベルト・グイスカルドとその弟であるルッジェーロがローマ教皇を後ろ盾として攻めて来た。この時、教皇はロベルトに公の称号を授け、同時に内実を伴わない「シチリア公」の称号も授けており、このことがロベルトがアラブ人によってもぎ取られたシチリアへ遠征に着手することを駆り立てたのである。 ロベルト、ルッジェーロ兄弟が初めてシチリアに侵入したのは1061年5月であり、レッジョ・ディ・カラブリアから渡って来て メッシーナ海峡の支配権を握るために戦略上必要不可欠なメッシーナを包囲している。ルッジェーロは最初に海峡を渡って誰にも見られずに夜の間に上陸して朝にサラセン軍を驚かせた。それから遅れる形でロベルトの軍隊が上陸した際には無抵抗のままメッシーナが放棄されたことを知った。ロベルトは直ちに街を要塞化してイブン・アル=ハワーズの宿敵であった アミールイブン・ビン=ティムナスと同盟した。 それからロベルト、ルッジェーロ、そしてティムナスはティムナスに忠実なままであったロメッタを経由して島の中心地へと進軍した。3人はフラッツァノとともにマニアケス平原を通過した。チェントゥーリペの町を襲撃はしたものの抵抗が大きかったので引き払った。パテルノーは素早く陥落してロベルトは自軍をシチリア中央の中で最も手強い要塞である現在のエンナであるカストロジョヴァンニへと引き連れた。出撃した守備軍が打ち破られる一方で要塞その物は落ちず、冬の到来のためロベルトはアプリアへ帰還することを余儀なくされた。ロベルトは去る前にシチリアにおけるノルマン人の最初の城に当たるサン・マルコ・ダルンツィオでの要塞を築いた。 1064年にロベルトは戻っては来たもののカストロジョヴァンニを迂回する形で首都 パレルモ.へ直進した。しかしながら、その野営地はタランチュアにより放棄せざるをえず、遠征全体が中止された。1071年にパレルモに復したものの都市のみであり、要塞は落ちなかった。ロベルトはルッジェーロに、アプリア公の宗主の下でのシチリア伯(イタリア語版)を授与した。要塞は1072年1月に落ちた。兄弟間での島の分割は、ロベルトがパレルモ、メッシーナの半分及びヴァル・デモーネ(イタリア語版)を保持し、征服されていないところも含む残りをルッジェーロが得ることとなった。 1077年にルッジェーロは、島西部に残っていた2つのサラセン人の要塞のうちの一つであるトラーパニを包囲した。ルッジェーロの私生児ジョルダーノ(イタリア語版)が不意の出撃をしたことで草を食べていた守備駐屯軍の獣が驚いてしまった。食料の供給が断たれたことで町は直ぐに引き渡された。1079年にはタオルミーナが包囲されて1081年にジョルダーノはロベルト・ディ・ソウルヴァルやエリアス・カルトーミとともに他の不意の突撃で、シラクサの首長が掌握していたカターニアを征服した。 ルッジェーロ自身は1083年夏にイタリア半島本土の兄弟を助けるためにシチリアを後にしたが委任していたジョルダーノが反乱を起こしたためにシチリアに戻ることを余儀なくされ、そこでジョルダーノを服従させた。ルッジェーロは1085年に最終的に組織的な遠征に着手することが出来た。同年5月22日にルッジェーロは会場からシラクサに接近し、都市北部15マイルのところで小規模な騎兵の分遣隊を指揮した。5月25日にルッジェーロと首長の海軍が港で交戦し、そこで後者が殺された。他方、ジョルダーノ指揮下の軍勢は都市の包囲を開始した。包囲は夏を通して続いたが1086年3月に降伏し、ノートのみがサラセンの領域に残ったままであった。1091年に短い努力の後にノートも同じく服従してシチリア征服は完全な物となった。 南イタリアの征服は統一された指揮命令のもと着手されたことから、ルッジェーロの権威は他の征服者たちからの挑戦を受けずに自らの支配下においたギリシャ人、アラブ人、ランゴバルド人、ノルマン人の封臣及び臣民に対する強力な権力を維持した。ローマ・カトリック教会は教皇の承認を得たルッジェーロによって島及びその教会が組織した管理者を紹介された。司教管区が、首都大司教の権威を付随させた形でパレルモ、シラクサ及びアグリジェントに設立された。1130年の占領地の王国昇格後、シチリアはノルマン権力の中心地となった。 1091年にルッジェーロはマルタに上陸してイムディーナの城壁を巡らせた街を征服した。同島に税を課したもののアラブ人の総督がその機能を続けることを許可した。1127年にルッジェーロ2世はイスラム教徒の総督を解任してノルマン人の役人に置き換えた。ノルマン人の支配のもと、ギリシャ正教徒の島民であったアラブ人は幾世紀に及ぶイスラム教徒の支配下のもとで変形した異なる言語であるマルタ語を採用した。
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