シチリアの喪失
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/05 03:22 UTC 版)
「ナポリ・アンジュー朝」の記事における「シチリアの喪失」の解説
「シチリアの晩祷」も参照 シャルルの野望に対して東ローマ皇帝ミカエル8世パレオロゴスは、アラゴン王ペドロ3世と組むことで対抗した。ペドロ3世はマンフレーディの娘コスタンツァと結婚してシチリア王位に野心を持っていたからである。ミカエル8世はシチリア人にも工作活動を行った。シチリア人にとってシャルルの野望はフランス人による収奪以外の何物でもなかったからである。 その不満が一気に現れたのが、1282年に起きた「シチリアの晩祷」である。この暴動の結果、4000人にも及ぶフランス人が殺害され、アンジュー家の勢力は一掃されて、ペドロ3世がシチリア王に迎えられた。ナポリに押し込められる形となったシャルルは、甥(ルイ9世の子)のフランス王フィリップ3世も抱き込んでシチリア奪還を目指したが(シチリア晩祷戦争)、国力を消耗させるだけに終わり、1285年に失意のうちに死去した。結局、ナポリはアンジュー家に、シチリアはアラゴン家の勢力圏になったのである。
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