シチリアと東ローマ帝国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/06 07:46 UTC 版)
「ハドリアヌス4世 (ローマ教皇)」の記事における「シチリアと東ローマ帝国」の解説
1154年から1155年にかけて、ハドリアヌス4世はグリエルモ1世が教皇領の一部を占領していたことを非難し、シチリアを王国として認めなかった。これに対し、グリエルモは教皇領南部への侵略を開始した。戴冠のために軍を率いてローマに到着したフリードリヒ1世は、戴冠式の後そのまま帰国した。戴冠式のなかでフリードリヒ1世は、先例にしたがい、帝冠を授ける教皇がまたがる馬の鐙を支えるというフリードリヒにとっては屈辱的な儀礼を受け入れた。ただし、このときフリードリヒ1世は、イタリアを去る前に東ローマ帝国の特使と面会していた。皇帝フリードリヒは、シチリアから自分のもとに亡命していた反ノルマン派の地元貴族にイタリアへの帰国を許すと、これら貴族はコンスタンティノープルからの潤沢な資金を得て反ノルマン軍を編成し、教皇にも協力を訴えた。1155年9月、教皇ハドリアヌス4世は自軍を用意して同盟軍に加勢し、その後ローマ教皇、東ローマ帝国と地元貴族による同盟軍は1156年4月までにアドリア海に面したプッリャ地方の大半を制圧した。しかし、同5月のブリンディジ(プッリャ州)の戦いで陸海両方からのシチリア王国軍による攻撃で決定的な敗北を喫し、教皇は南イタリアのベネヴェントでシチリアとの和平条約を結ぶことを余儀なくされた(ベネヴェント条約。このときシチリアとの交渉の先頭に立ったのが、ハドリアヌス4世の後継者となったアレクサンデル3世である)。
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