ナポリ王国とは? わかりやすく解説

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ナポリ‐おうこく〔‐ワウコク〕【ナポリ王国】

読み方:なぽりおうこく

13世紀からイタリア半島南部にあった王国1435年シチリア王国合体1713年以来オーストリア・スペイン・フランスの支配下におかれた。1815年再びシチリア王国合体し1860年ガリバルディの軍に征服され1861年統一イタリア一部となる。


ナポリ王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/22 04:31 UTC 版)

ナポリ王国(ナポリおうこく、イタリア語: Regno di Napoli)は、13世紀から19世紀にかけて、ナポリを中心に南イタリアを支配した国家である。


注釈

  1. ^ アラゴン王兼シチリア王であり、カスティーリャ共治王。1479年のカスティーリャ=アラゴン連合王国の成立をもって「スペイン王国」の成立とされる。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 重岡保郎. “ナポリ王国”. 日本大百科全書(ニッポニカ)(コトバンク所収). 2018年5月16日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k ナポリ王国”. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典(コトバンク所収). 2018年5月16日閲覧。
  3. ^ a b ナポリ王国”. 百科事典マイペディア(コトバンク所収). 2018年5月16日閲覧。


「ナポリ王国」の続きの解説一覧

ナポリ王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/23 08:23 UTC 版)

カルロ1世 (シチリア王)」の記事における「ナポリ王国」の解説

以降ナポリ拠点とするシャルルペドロ3世の間の戦争続いたシチリア晩祷戦争)。シャルルは、ローマ教皇マルティヌス4世ペドロ3世破門し、甥のフランス王フィリップ3世アラゴン王位を与えるよう工作しシャルル意を受けたフィリップ3世アラゴン攻めたが、成果上がらず逆に敗北した1284年ナポリアラゴン海戦シャルル側に利は無く長男シャルル2世捕虜になり、1285年失意のうちに病死した。同年フィリップ3世ペドロ3世マルティヌス4世没している。 シャルル死後1288年捕虜から解放されシャルル2世後継者となり、以後シチリア王称したシチリア支配をすることはなく、通常ナポリ王称される。後にシャルル曾孫カルロ・ロベルトハンガリー王となった。この王朝ハンガリー・アンジュー朝呼ばれる

※この「ナポリ王国」の解説は、「カルロ1世 (シチリア王)」の解説の一部です。
「ナポリ王国」を含む「カルロ1世 (シチリア王)」の記事については、「カルロ1世 (シチリア王)」の概要を参照ください。

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