チェリニョーラの戦い
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チェリニョーラの戦い | |
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![]() ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバがルイ・ダルマニャックの遺体を発見、フェデリコ・デ・マドラーソ作、1835年。プラド美術館所蔵。 |
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戦争:第二次イタリア戦争 | |
年月日:1503年4月28日 | |
場所:ナポリ王国、チェリニョーラ | |
結果:スペインの勝利 | |
交戦勢力 | |
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指導者・指揮官 | |
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戦力 | |
合計約6,300[1] | 合計約9,000[1]
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損害 | |
500 | 2,000 |
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チェリニョーラの戦い(チェリニョーラのたたかい、英語: Battle of Cerignola)は1503年4月28日、南イタリアのナポリ王国領チェリニョーラにおいてフランス軍とスペイン軍の間で行われた戦闘。ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバ率いるランツクネヒト2,000、火縄銃兵1,000、大砲20門を含むスペイン軍が、主に貴族主体の重装騎兵とスイス傭兵の槍兵から成るフランス軍9,000を撃破し、フランス軍の指揮官ヌムール公ルイ・ダルマニャックは戦死した。ヨーロッパにおいて火器が勝負を決した最初の戦闘の1つであり、壕の後ろから射撃するスペインの火縄銃兵がスイス槍兵とフランス騎兵の突撃を撃退した。
準備
「エル・グラン・カピタン」(伊: El Gran Capitán)と尊称されたゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバは当時、戦略的な優位を多数得ていた。彼は歩兵を後のテルシオの前身にあたるコロネリア(Coronelía)と呼ばれる部隊に編成したが、これは槍と火縄銃と剣を混ぜて用いる部隊だった。このような編制は当時のスペイン軍においては革新的で、それ以前の10~15世紀にスペイン内のムスリムを相手に戦ったレコンキスタでは、フランス軍と同様に騎兵を重視していた。スペイン軍はチェリニョーラの高地を占領し、壁や杭を掩体として用いた。丘の前面には塹壕が掘られ、その中に火縄銃兵が配置された。スペインの砲兵はぶどう園の中にある高所に配置され、そこからは戦場全体を一望できた。スペインの軽騎兵であるヒネーテは全軍の前方に配置され、プロスペロ・コロンナ率いる重騎兵は予備として控置された[2]。
コルドバが対峙したのはフランスの職業軍人の部隊であり、シャルル7世の改革を経て強化されていた。その主力は勅令隊の重装騎兵とスイス傭兵の槍兵だったが、同時に大砲も多数保有しており、その数はスペイン軍を上回っていた。この奇妙な編制は16世紀前半を通してフランス軍の特徴だった。しかしながらフランス砲兵は到着が遅れ、戦闘に参加できなかった。
戦闘
戦闘はフランス重騎兵によるスペイン軍中央部に対する2回の突撃で始まったが、2回ともスペインの大砲と火縄銃に撃退された。3回目の突撃はスペイン軍の右側面を狙ったが、フランス騎兵の多くがスペイン軍の塹壕に落ち、そこを火縄銃兵の猛射に襲われて撃退された。このときの射撃で戦死した中にフランス軍の指揮官であるヌムール公ルイ・ダルマニャックがおり、将軍が小火器の射撃で戦死したのは恐らくこれが史上初である。指揮を引き継いだスイス傭兵の指揮官シャンデュー(Chandieu)の下で、イヴ・ダレグル(Yves d'Alègre)率いるフランス後衛の到着を待たずに、スイス歩兵は騎兵とともに攻撃を再開した。スペイン軍中央に対する攻撃が迫る中、火縄銃兵は下げられ、ランツクネヒトが前に出た。スイス兵部隊にはやがてガスコーニュ兵も加わったが、スペイン軍の防衛線に突入できず、側面から火縄銃兵に射たれつつスペイン騎兵にも襲撃されて、大損害を負って撃退された。この際にシャンデューも戦死した。
コルドバは今や混乱に陥った敵に対する反撃を命じ、歩兵に加えて予備の重騎兵を投入した。騎乗した火縄銃兵が残余のフランス騎兵を包囲し潰走させたが、スイス槍兵は比較的整然と撤退した[2]。
騎兵も槍兵も敗れたのを見て、フランス後衛を率いたイヴ・ダレグルは撤退を命じ、勝ちに乗るスペインのヒネーテに追撃された[2]。
「チェリニョーラの戦いで何が起こったか。スペイン軍が敗れたと勘違いしたとあるイタリア人が火薬を積んだ荷車に火を放ち、軍がこの事故で混乱したところ、エル・グラン・カピタンは却って励まされて『吉兆だ友よ、あれは勝利の光だ』と言ったという。つまりはそういうことだった」[3]。
その後
戦闘はフランスの大敗北に終わり、フランス軍が2千人ほど失った一方、スペイン軍は500人の損害しか受けなかった[2]。フランスの補給物資や輸送隊列は、積載されたままだった全ての大砲ごとスペイン軍が鹵獲した。この戦いが終わる際、史上初めて"祈祷命令"(toque de oracion) が発せられた。これは後に西欧の軍隊に広く普及した習慣だが、戦場が(スペイン兵と同じくキリスト教徒である)フランス兵の死体で溢れているのを見たコルドバが、長音三声の吹奏と共に全ての死者に向けて祈りを捧げるよう命じたものである。
フランス軍はナポリの北西にあるガエータ要塞へ撤退した。コルドバ軍は要塞に突撃したが、攻撃はことごとく失敗した。フランス軍は篭城して長期戦の構えを見せ、海から補給を受け取った。ガエータを落とせず、フランスの増援を恐れたコルドバは包囲を諦め、ガエータから南8キロメートルのカステローネ(Castellone)へ移動した[2]。
チェリニョーラの戦いはスペイン軍によるヨーロッパ戦場の制覇の端緒となり、1643年のロクロワの戦いで敗北するまで続いた。また長槍と射撃の戦術の有効性を証明した。チェリニョーラの戦いはヨーロッパにおいて火器が勝負を決した最初の大規模戦闘であり、その点で約70年後の1575年に日本で起きた長篠の戦いと並ぶものである。
脚注
参考文献
- Batista González, Juan (2007). España Estratégica. Guerra y Diplomacia en la Historia de España. Sílex. ISBN 978-84-7737-183-0.
- Cassidy, Ben. "Machiavelli and the Ideology of the Offensive: Gunpowder Weapons in the Art of War." Journal of Military History 67#2 (2003): 381-404. オンライン版
- Losada, Juan Carlos (2006). Batallas Decisivas de la Historia de España. Punto de Lectura. ISBN 978-84-663-1484-8.
- Mallet, Michael and Shaw, Christine. The Italian Wars 1494-1559. Harlow: Pearson Educated Limited (2012) ISBN 978-0-582-05758-6.
- Tafiłowski, Piotr (2007). Wojny włoskie 1494-1559. Zabrze: Inforeditions. ISBN 978-83-89943-18-7.
チェリニョーラの戦い
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「ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバ」の記事における「チェリニョーラの戦い」の解説
ゴンサロは丘の上に陣を取り、周囲を塹壕と土塁で補強していた。スペイン軍の兵力は諸説あるが、騎兵1600名、歩兵6000名だったと考えられている。他に500名前後のアルケブスを装備したドイツ人傭兵がおり、この部隊はマクシミリアン1世が派遣した援軍であった。砲は13門。これに対しルイ・ダルマニャック率いるフランス軍は、騎兵650名、歩兵7000名、砲26門だった。歩兵の主力はスイス槍兵だったが、銃兵も存在していた。フランス軍は前日の軽騎兵による妨害で十分な偵察ができず、塹壕の存在を察知していなかった。 最初に動いたのはフランス軍の騎兵だった。ルイ・ダルマニャックは早期に決着をつけるべく、騎兵を突撃させた。ゴンサロは、騎兵が塹壕で停止したところを大砲の斉射によって混乱させようとしたが、突如としてスペイン軍の火薬庫の一つが爆発、驚いた砲兵は予定より早く斉射を行ってしまった。しかし、ゴンサロは火薬庫の爆発を見ても慌てず、「良い知らせだ。これこそ勝利の光である」と、言ったとされる。 大砲の斉射は失敗したが、ドイツ傭兵が力を発揮し、塹壕で停止した騎兵を火力で射すくめた。この射撃によって騎兵の指揮官が戦死した。続いてルイ・ダルマニャックは歩兵を前進させた。スイス槍兵は塹壕を突破しようと3度にわたって突撃を仕掛けたが、果たせずに撃退され、スイス槍兵の指揮官も戦死した。あまりの損害の多さにフランス軍は撤退を開始、ゴンサロは直ちに追撃させた。フランス軍の司令官ルイ・ダルマニャックは追撃してきた騎兵に殺され、また多くのフランス軍兵士が殺された。この戦いによるフランス軍の損害は3000名を超え、一方のスペイン軍の損害は100名前後に過ぎなかった。スペイン軍はフランスの遺棄していった大砲を全て獲得した。 チェリニョーラの戦いは決定的な戦いだった。フランス軍はナポリから追い出され、ゴンサロは同年中にナポリ全土を制圧した。1504年、戦力を再編できぬフランス軍はイタリアから撤退し、第二次イタリア戦争は終結した。軍事史的にも重要な戦いだった。あくまで攻城戦の技術に基づいてはいたものの、火力によって重装騎兵を破ったことの意味は大きかった。これ以降、野戦築城と火力を組み合わせた戦術は一般化していった。
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