ナポリ遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/24 06:18 UTC 版)
同年中にカスティーリャ・アラゴンの援軍が南イタリアへ上陸、これに呼応してルイ12世もミラノから南下して敵軍を挟撃し、両軍はナポリ王フェデリーコ1世を退位させた。しかしフェルナンド2世は、最初からルイ12世にナポリ王位を譲る考えなどなかった。カスティーリャ・アラゴン軍はゴンサロ・デ・コルドバ将軍の援軍を呼び寄せ、またヴェネツィア共和国の軍司令官であったバルトロメオ・ダルヴィアーノ(英語版)を傭兵隊長として雇用するなど準備を進めていた。 詳細は「ルーヴォの戦い(英語版)」および「セミナーラの戦い (1503年)(英語版)」を参照 1503年4月28日、チェリニョーラの戦いでゴンサロ率いるカスティーリャ・アラゴン軍8000人は、フランス王軍3万2000人に攻撃を仕掛け、数で大きく上回っていたにもかかわらずフランス軍は散々に打ちのめされた。フランス軍はヌムール公ルイ・ダルマニャック(英語版)が戦死に追い込まれ、4000人の死傷者を出して敗走した。 さらアルヴィアーノの援軍と合流して1万5000人にまで増大化したカスティーリャ・アラゴン軍は、フランス軍の残余2万3000人をガリリャーノ川において追撃、12月29日にフランス軍は8000人の死傷者と捕虜を出してさらに退却を強いられた(ガリリャーノ川の戦い(英語版))。
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