ナポリ革命・ピエモンテ革命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 04:45 UTC 版)
「カルボナリ」の記事における「ナポリ革命・ピエモンテ革命」の解説
1820年1月1日、スペインの陸軍大佐ラファエル・デル・リエゴ(Rafael del Riego y Nuñez)らが、ブルボン復古王政の専制打倒を目指してカディスで反乱を起こし、1812年憲法の復活に成功した(スペイン立憲革命)。カルボナリはこの機に乗じて、1820年7月にナポリ近郊のノーラで、ナポリ軍を巻き込み一斉蜂起した(ナポリ革命、またはノーラの蜂起)。彼らはスペインの1812年憲法と同様の憲法を制定するよう国王フェルディナンド4世に迫り、これを実現させた。 翌1821年3月にはピエモンテの州都トリノで、やはりカルボナリに指導されたサルデーニャ軍が決起(ピエモンテ革命)。サルデーニャ王子カルロ・アルベルト(Carlo Alberto)を摂政に迎えて自由主義的革命政府を樹立し、憲法発布を実現。国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世(Vittorio Emanuele I)は退位し、替わってカルロ・フェリーチェ(Carlo Felice)が即位した。これにより、一時的ながら革命は成功した。なお、カルロ・アルベルトは1831年、カルロ・フェリーチェの後を継いで国王に即位している。 これに対し、北イタリアを領有するオーストリアは革命の波及を恐れ、鎮圧に乗り出した。宰相クレメンス・メッテルニヒ(Cremens Metternich)は1821年、五国同盟の加盟国(英・露・墺・普・仏)をライバッハ(現リュブリャナ)に集め、対応を協議(ライバッハ会議)。オーストリア軍の出兵を承認させた。同年3月23日、オーストリア軍はナポリを占領。4月にはピエモンテに侵入し、カルボナリを中心とする革命軍を破った。 なお、スペイン立憲革命もフランス軍の干渉により挫折、指導者リエゴは1823年に刑死した。
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