国王に即位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 05:25 UTC 版)
「エドワード1世 (イングランド王)」の記事における「国王に即位」の解説
1272年11月16日にヘンリー3世が崩御したとき、エドワードは十字軍からの帰路の途中でアルプス山麓にいた。そして11月20日の父の大葬の日に外国の地からイングランド王位の継承を宣言した。母エリナーを摂政に任じ、自身は帰国を急がず、ガスコーニュの安定やフランドルでの貿易問題解決のためのフランス王フィリップ3世との交渉を続けた。 それらの目的を達したのちの1274年にようやくイングランドへ帰国し、同年8月19日にウェストミンスター寺院で戴冠式を行った。このようにのんびりと王位継承を行ったことはエドワード1世の王権が極めて安定していたことを意味している。内乱終結後は国王の強い指導力のもとに国王と諸侯の関係が極めて緊密になっていた。
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国王に即位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 14:10 UTC 版)
「エドワード2世 (イングランド王)」の記事における「国王に即位」の解説
父王もスコットランドへ向かって出陣したが、その途中の1307年7月に崩御した。皇太子エドワードがただちにエドワード2世としてイングランド王に即位した。崩御に際してエドワード1世は、 自分の心臓は聖地エルサレムに埋葬する。 遺骸はスコットランド平定まで埋葬しない。 自分の遺骨をイングランド軍の先頭に置いて進軍する。 ギャヴィストンは追放とするが、その追放を解くべからず。 ことを皇太子に遺言したが、エドワード2世は父の遺言を守らず、父の遺骸は全てウェストミンスター寺院に葬り、スコットランド出兵を中止し、ギャヴィストンの追放を解いて再び側近として重用した。 父王治世晩年からの諸侯と王権の慢性的不和、王庫の財政破たん状態は続いていたが、エドワード2世はそれを解決できるような器ではなかった。
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