国王と教皇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/23 05:46 UTC 版)
ルイ16世は、厳しい反教権主義的な内容を含むこの法律に非常に戸惑いを覚えていた。それは全く彼の意志に反するものだったからだ。教皇が革命に反対の意見を持っていることはすでに周知の事実であったが、フランスと歴代教皇とのこれまでの歴史から考えて、ボワジュランは教皇は最終的には和解の意志があると信じていた。またすでに教会財産は国有化されていたため、生活の糧を失った聖職者の生活保障が必要であり、この法律はどうしても成立させなければならなかった。それで彼はシセ大司教と2人でそれぞれ国王に署名を薦め、既成事実を積み重ねることで、彼らは教皇が聖会を指示して民事基本法を認めることを期待した。 様々な思惑から方々で説得を受けたルイ16世は、不承不承、裁可を受け入れるわけだが、彼はすでに後にヴァレンヌ事件となるパリ逃亡計画を秘密裏に進めていて、半ば強要されたという事実が、これを決意する上での動機の一つとなったと考えられている。 実施面での問題と教会と交渉に費やしたために公布まで時間がかかった。この間に国王は諸外国に軍事支援を依頼して交渉していたが、上手くいかなかった。手詰まり感のなかで、宗教的感情は逆に反革命に利用できると考えた王党派や、王制護持に有利に働くと主張した立憲派のミラボーは、異なる思惑で、国王にこの法律を押し進めるように盛んに後押しした。一方では、10月30日、議員になっている司教たちは『聖職者基本法の諸原則に関する解説』と題するパンフレットを発行した。彼らは民事基本法を直接は非難しなかったが、唯一譲れない線として同法が宗教権力たる教皇によって承認されることを主張した。 他方、一般の聖職者と信徒の間では不安が広がっていた。モントーバンなど南部で、プロテスタントとカトリックとの間に流血沙汰の争いが続いていたことも、彼らの態度を硬化させた。西部と南部では激しい宗教対立の歴史があり、遺恨はまだ人々の記憶に新しかった。民事基本法のもとで、憲法の絶対的支配の下に教会が置かれるが、他で平等の名の下にプロテスタント教徒やユダヤ人が権利を獲得するのを見るにつれ、革命がカトリックを弾圧しようとしているのではないかと疑いだしたのは、自然な流れだったろう。この疑念は教皇ピウス6世の態度によってさらに助長されることになり、次第に敵意へと変わっていった。
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