フランス王権との対立、「アヴィニョン捕囚」とガリカニスムとは? わかりやすく解説

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フランス王権との対立、「アヴィニョン捕囚」とガリカニスム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:57 UTC 版)

中世ヨーロッパにおける教会と国家」の記事における「フランス王権との対立、「アヴィニョン捕囚」とガリカニスム」の解説

この時代ドイツ皇帝かわってフランス王権台頭しイタリアにも進出するようになり様々な局面教権対立するようになってきた。13世紀後半フィリップ4世即位すると、この国王と教皇の間で聖職者への課税巡って対立おこった教皇の側ではアエギディウス・コロンナが論陣張り一方フランス王権支持したのがパリヨアンネスであったヨアンネス聖職者単なる精神的権威であるから世俗のことに関わるきでないとして教皇世俗への介入批判し一方で世俗国家自然的社会の最高形態であるからその君主教会による聖別を必要としない論じた1302年フィリップ4世三部会開いて等族身分支持とりつけ教皇ボニファティウス8世捕らえてこれを憤死させた(アナーニ事件)。フィリップ4世フランス人であるクレメンス5世擁立すると、教皇庁アヴィニョン移転させた。以後70年間にわたり教皇庁アヴィニョンにあってフランス王権影響をうけることになり、この時代教皇の「アヴィニョン捕囚」という。クレメンス5世時代にはテンプル騎士団フィリップ4世によって異端として告発されクレメンス5世はこの異端裁判において教皇側のイニシアティヴ維持しようとしたが、結局はフランス王権屈服しヴィエンヌ公会議ではっきりとした理由示さずテンプル騎士団解散宣言したこのようにクレメンス5世フランス王権影響強く受けており、グレゴリウス11世までの「アヴィニョン捕囚」期の教皇立場総じてクレメンス5世とあまり変わらなかった。カペー朝断絶後1337年百年戦争が始まるとフランス徐々に戦争により疲弊し相対的に教皇庁自立性強めた。「アヴィニョン捕囚」期は続く教会大分裂時代とともに概して教権没落期・低迷期考えられる時期であるが、一方で教会司法制度整えられ教権教会法上における権限の上昇が見られた。 この時代ガリカニスムという主張あらわれたガリカニスムとは「ガリア主義」という意味で、ガリアとはフランスのことである。この主張フランス教会教権からの独立説くもので、その契機考えられるのは前述したパリヨアンネスである。このガリカニスムはとくに16世紀以降法学者たちの間でさかんに論じられるようになり、やがてイエズス会などの教皇至上主義激しく対立して民族主義に近づいていった。 [先頭へ戻る]

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