フランス王妃として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/27 06:23 UTC 版)
「マリー・テレーズ・ドートリッシュ」の記事における「フランス王妃として」の解説
マリーはフランス語を上手に話すことができず、スペイン訛りのフランス語は周囲をいらつかせた。ハプスブルク家独特の小さく短い唇はマリーのとぼしい表情をより寂しいものとさせた。マリー・テレーズは政治や文学に興味を持たず、義母アンヌと共に祈り、トランプ遊びをして過ごした。アンヌは同じスペイン・ハプスブルク家出身の伯母でもあり、スペイン語での会話を楽しむなど良好な関係であったが、アンヌは6年後の1666年に死去した。 ルイ14世との結婚生活は良好なものに見えたが、マリーの猜疑心のない性格は逆にルイ14世を遠ざけてしまい、次第に国王は王妃を無視するようになった。ルイ14世は公妾や愛人を沢山作ったが、その存在を最後に知らされるのはマリーであった。ルイ14世は表向きは王妃とベッドを共にしているように見せかけていた。 控えめな性格であった寵姫ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールについては「野にひそやかに咲くスミレのような方」と好意的に見ており、彼女が宮廷を去りカルメル会修道院に入ってから、王妃は何度か見舞いに行っている。しかし、あたかも自分こそが王妃のように振舞うモンテスパン侯爵夫人には「いずれこの女性により国を滅ぼされる」と嫌悪している。ルイ14世が非常に信心深いマントノン侯爵夫人を寵姫に迎えた頃、王妃を顧みない生活を正すよう注意を受けたという奇妙なエピソードも残っている。マントノン侯爵夫人は、その善良な人柄から王妃への配慮を忘れなかったため、マリーは、自分はこの時期ほど良く扱われたことはなかったと語っている。マリー・テレーズ王妃は殆どの時間を使用人と過ごし、宮廷に出ることはほとんどなく、穏やかで信仰深い生活を送っていた。 国王との間には3男3女が生まれたが、長男ルイ(グラン・ドーファン、ルイ15世の祖父)以外は夭逝し、マリーも1683年に44歳で死去した。死因は腋に大きな腫瘍ができる癌であったとされる。長い間寵姫や愛人にうつつを抜かしていたルイ14世だが、王妃の死の際には涙を流して別れを告げたとされている。 後にグラン・ドーファンの次男アンジュー公フィリップは、ピレネー条約で定められたマリーの持参金が支払われていないことを理由にスペイン王位継承権の放棄は無効であるとし、フェリペ5世として王位を継承した。
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