フランス王家への反抗と服従
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 09:35 UTC 版)
「テオバルド1世 (ナバラ王)」の記事における「フランス王家への反抗と服従」の解説
フィリップ2世亡き後に即位したフランス王ルイ8世に仕え、1224年にラ・ロシェルを包囲したフランス軍に加わったが、やがてルイ8世と対立し、1226年にアルビジョア十字軍の際にアヴィニョンから勝手に陣払いをしたことで対立が明確になった。直後にルイ8世が急死したため、王妃ブランシュ・ド・カスティーユに横恋慕したティボー4世が毒殺したと噂され、ルイ9世の戴冠式への出席は許されなかった。ルイ9世の即位後母后ブランシュが摂政に就くと、ティボー4世は1227年1月にブルターニュ公国摂政ピエール1世(ピエール・ド・モークレール)、ラ・マルシュ伯ユーグ10世・ド・リュジニャンと組んで反乱を起こしたが、ブランシュに説得され王家と対立するのをやめ、3月に反乱から離脱した。他の貴族たちも王家と和睦して衝突は起こらなかった。 ティボー4世は宮廷での政治的影響力を強くしていったが、先の反乱離脱で他の貴族から反感を買い(特にピエール1世とユーグ10世から大きな恨みを買った)、1229年から戦闘が始まった。翌1230年にピエール1世とユーグ10世の報復を受け、両者の軍にシャンパーニュ伯領・トロワを包囲されたが、城壁が両軍を阻んでいる間に王太后の援軍が到来、これによって危機を切り抜けた。 翌1231年に妻アニェスが没するとピエール1世から関係修復を持ち掛けられ、ピエール1世の娘ヨランドと再婚しようとしたが、国王の申し出を受けた教皇から禁止された。1236年、娘ブランシュをピエール1世の息子ジャン1世と結婚させて関係修復を果たし、ユーグ10世とも同盟を結び直したが、再びルイ9世と対立した際には、国王の圧力で同盟が分解したため再度降伏した。以後国王側に留まったとされるが、この間の1234年にはブロワ・シャルトル・サンセール・シャトーダンを王に売却した。これには1230年の戦争の後始末という意味があったが、前述のアリックスへの支払い金捻出という事情も重なり、土壇場でブロワ家発祥の地であるブロワの明け渡しを嫌がったがブランシュに説得され、ブロワを手放さざるを得なかった。 戦争と領地割譲という痛手を負いながらもシャンパーニュの経営に取り組み、盛んに領地を獲得したり城の建築、隣接地との境界画定に奔走、それらが諸侯の反感を買い1230年の戦争を引き起こしたが、内政も整え、シャンパーニュ伯領の一体化を目指した。フランスの統治システムに倣い地方行政・裁判・通貨制度を改革、地方役人プレヴォの上にバイイを置いて伯領を6つに分けた管区で財政と裁判を担当させ、バイイの法廷の他に上訴を受け付ける裁判所をトロワに設置した。通貨の統一も図り地方の造幣所に手を付けたが、こちらは成果が上がらなかった。経済にも目を付け、シャンパーニュの大市を保護しながら自らもトロワにいくつか市を所有、1230年にトロワとプロヴァンに特許状を与えてコミューン結成を認可する一方、都市民への徴税機関設置を決めて裁判の判決と罰金からの収入を確保しつつも裁判権を都市と分け合っている。
※この「フランス王家への反抗と服従」の解説は、「テオバルド1世 (ナバラ王)」の解説の一部です。
「フランス王家への反抗と服従」を含む「テオバルド1世 (ナバラ王)」の記事については、「テオバルド1世 (ナバラ王)」の概要を参照ください。
- フランス王家への反抗と服従のページへのリンク