フランス王国内の抗争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/05 03:24 UTC 版)
「ブルゴーニュ公国」の記事における「フランス王国内の抗争」の解説
百年戦争は膠着し、1380年9月にシャルル5世が崩御する。11歳のシャルル6世(狂気王)が即位し、フィリップ豪胆公をはじめ王のおじたちは1380年11月30日に、協同統治の盟約を結んだ。シャルル6世から見て、父王シャルル5世の弟であるアンジュー公ルイはナポリへ、ベリー公ジャンは美術品蒐集に、母后ジャンヌ・ド・ブルボンの兄ブルボン公ルイはマーディア十字軍に関心を示したため、フィリップ豪胆公がフランス国政に影響力を持った。 1385年、長男ジャンとバイエルン公の三女マルグリット、長女マルグリットとバイエルン公の長男ヴィルヘルム2世を縁組させた(カンブレー二重結婚)。 1388年にシャルル6世は親政を開始し王弟オルレアン公ルイらを重用したため、フィリップ豪胆公とも対立を深めた。ところが、シャルル6世は1392年8月に精神障害(ガラス妄想)の発作を起こして以降、1400年頃までに統治が不可能な状態となった。国王の代弁者は王妃イザボーであり、王妃は王弟オルレアン公ルイと愛人関係になったため、オルレアン派が勢力を増した。この間、1396年3月11日にはパリにおいて、1426年までの全面休戦協定が結ばれ、百年戦争は一時休戦となった。 1404年にフィリップ豪胆公の逝去した後も、ジャン1世(無怖公/サン・プール)を中心にブルゴーニュ派を形成した。1407年11月23日、ブルゴーニュ派はオルレアン公ルイを暗殺した。オルレアン派は、1411年にルイの息子シャルルを盟主に、シャルルの舅アルマニャック伯ベルナール7世を中心としたアルマニャック派と名を変え、以後、武力行使を含む内乱の様相を呈するに至った。
※この「フランス王国内の抗争」の解説は、「ブルゴーニュ公国」の解説の一部です。
「フランス王国内の抗争」を含む「ブルゴーニュ公国」の記事については、「ブルゴーニュ公国」の概要を参照ください。
- フランス王国内の抗争のページへのリンク