フランス王国の主導権争い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 00:32 UTC 版)
「アルマニャック派」の記事における「フランス王国の主導権争い」の解説
両派の内戦は1411年7月から始まり一進一退だったが、状況を有利にするために両派はイングランドの支援を求めていた。先にイングランドと交渉していたブルゴーニュ派が10月にイングランドの援軍2000人を得て首都パリを奪ったが、翌1412年1月にイングランドで政変が起こり方針転換、それにより5月にアルマニャック派とイングランドの同盟が成立、ブルゴーニュ派は排除された。 しかし両派とも内戦に疲れ8月に和睦、イングランドは一方的に同盟を破られる形になり、8月から11月にフランスへ派兵した4000人の兵も撤収せざるを得なかった。 1413年、パリで親ブルゴーニュ派の屠殺業者シモン・カボシュ(フランス語版)(シモン・ル・クートリエ)が市民を扇動してアルマニャック派と見られた官僚達を虐殺(カボシュの反乱(フランス語版))、憤慨したシャルル6世とルイ王太子ら宮廷派はアルマニャック派に助けを求めた。 これに応じたアルマニャック派は8月に暴徒を鎮圧し無怖公らブルゴーニュ派はパリを脱出した。こうして宮廷を掌握したアルマニャック派だったが、1415年にフランス遠征を開始したイングランド王ヘンリー5世を撃破しようとしてアジャンクールの戦いで大敗、アランソン公は戦死、オルレアン公とブルボン公は捕虜となり、ブルターニュ公も弟アルテュール・ド・リッシュモンが捕らえられイングランドに反抗出来なくなり、アルマニャック派は大打撃を受けた。 同年と翌1416年に王太子とベリー公も死去、1417年から行われたヘンリー5世のフランス征服にもアルマニャック派はなす術が無かった。1418年にブルゴーニュ派が扇動したパリ市民の再度の暴動でアルマニャック伯は殺され、パリは再びブルゴーニュ派が制圧した。 だがこの頃になると、イングランドの勢力拡大に不安を感じた無怖公がアルマニャック派との和睦に動き出すが、新たに盟主となったシャルル王太子(後のシャルル7世)らアルマニャック派は1419年に無怖公を暗殺したため、息子のフィリップ3世(善良公)とイングランドが同盟を結び、1420年のトロワ条約で将来のイングランド・フランス二重王国樹立が約束され、王太子は継承権を否定されるまでになってしまった。 已む無くアルマニャック派はブールジュを中心としたフランス南部でイングランドに抵抗するが、1422年にヘンリー5世・シャルル6世亡き後に即位したヘンリー6世の叔父ベッドフォード公ジョンを中心としたイングランド軍に押されていった。そうした中でも王太子の姑ヨランド・ダラゴンがブルゴーニュ派との和睦に取り組み、1424年にブルターニュ公も交えて善良公と王太子の休戦協定を結んだ。 更にヨランドは計画を一層推し進め、翌1425年にイングランドから解放されたリッシュモンをフランス元帥に就任させ、無怖公の暗殺者などアルマニャック派強硬派を排除、宮廷を善良公との融和に近付けた。
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