ブルゴーニュ派との和睦とは? わかりやすく解説

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ブルゴーニュ派との和睦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 00:32 UTC 版)

アルマニャック派」の記事における「ブルゴーニュ派との和睦」の解説

交渉順調に進むかに見えたが、リッシュモンあまりに直情径行だったため王太子遠ざけられ代わりにジョルジュ・ド・ラ・トレモイユ重用されに伴いブルターニュ公がフランスから離れブルゴーニュ派との交渉中断されリッシュモンラ・トレモイユとの私戦起こりアルマニャック派内乱分裂した1429年ジャンヌ・ダルクオルレアン包囲戦勝利すると、リッシュモン宮廷反対押し切りジャンヌ加勢してパテーの戦いイングランド軍に勝利したが、宮廷反感強く再び遠ざけられシャルル7世戴冠式彼の正統性認められても戦線膠着していた。 だが、1431年ブルターニュ公が政略結婚フランス側戻り1432年リッシュモンヨランド要請宮廷へ復帰、翌1433年ラ・トレモイユリッシュモンらのクーデター宮廷から追放されると、リッシュモン中心となりアルマニャック派とブルゴーニュ派交渉再開進展していった。 1434年12月から翌1435年2月ヌヴェールリッシュモン善良公との交渉取りまとめ7月イングランド交えた和睦交渉参加した途中でイングランド離脱したため、フランスブルゴーニュヌヴェール協定元にして和睦条件決め9月21日アラスの和約締結されアルマニャック派とブルゴーニュ派対立解消善良公はイングランド手を切りフランスと結ぶことになった和約シャルル7世善良公に無怖公暗殺事件謝罪善良公のフランスへ臣従免除フランス土地いくつか善良公へ分割するなどシャルル7世代償を払う項目が多かったが、これにより派閥抗争無くなり宮廷リッシュモンの下でまとめられた。以後リッシュモンフランス軍動員し1436年パリ奪回皮切りにイングランド反撃進めていった。

※この「ブルゴーニュ派との和睦」の解説は、「アルマニャック派」の解説の一部です。
「ブルゴーニュ派との和睦」を含む「アルマニャック派」の記事については、「アルマニャック派」の概要を参照ください。

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