ブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立の意味・解説 

ブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/25 06:49 UTC 版)

シャルル6世 (フランス王)」の記事における「ブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立」の解説

精神異常のため、シャルル6世事実上政務執ることが不可能となり、豪胆公や息子ジャン1世(無怖公)を中心とするブルゴーニュ派と、王弟オルレアン公と息シャルル・ド・ヴァロワ中心としシャルル6世支持するアルマニャック派宮廷内部分裂し主導権巡って争うことになったこのようなフランス状勢見てイングランド王ヘンリー5世は、アルマニャック派支援しながらその裏ブルゴーニュ派提携するなど、両派の争い巧みに介入した。そして1415年ヘンリー5世シャルル6世対し支援の見返りとしてフランス王位の継承譲渡フランス領土の割譲、さらに多額賠償金要求した。あまりのことにアルマニャック派がこれを拒絶すると、ヘンリー5世すかさずイングランド軍を率いてフランス北部侵攻する。ヘンリー5世勢いは凄まじくフランス軍各地連戦連敗10月25日アジャンクールの戦い大敗したアルマニャック派オルレアン公らが捕虜となる大打撃受けたその間王太子ルイ1415年に、ルイ代わる王太子ジャン1417年に、と2人嗣子相次いで没するなどの不幸もあった。 このため両派に和解の動き起こったが、1419年アルマニャック派代表する王太子シャルル(後のシャルル7世)が和解交渉会見においてジャン無怖公を殺害したため、その跡を継いだフィリップ3世善良公)はイングランド同盟して王太子シャルル全面的に対立し1420年4月トロワ条約結んでヘンリー5世フランス王継承支持した。これにより、ヘンリー5世シャルル6世の娘カトリーヌキャサリン)との結婚と、シャルル6世死後王太子シャルルではなくヘンリー5世フランス王位を継承することなどが定められた。ヘンリー5世現実王位継承することなく1422年8月没したが、シャルル6世同年10月21日ヘンリー5世後を追うように病死した。 シャルル6世治世42年長きわたったが、精神障害によってその治世のほとんどは家臣団イングランド左右される時代となった

※この「ブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立」の解説は、「シャルル6世 (フランス王)」の解説の一部です。
「ブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立」を含む「シャルル6世 (フランス王)」の記事については、「シャルル6世 (フランス王)」の概要を参照ください。


ブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/25 22:23 UTC 版)

シャルル7世 (フランス王)」の記事における「ブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立」の解説

当時フランスブルゴーニュ派と、ガリカニスム謳うアルマニャック派との内戦状態にあり、両派は王と王族確保パリ支配巡って争い繰り返していた。1415年にこれを好機見たイングランド王ヘンリー5世フランス侵攻しアジャンクールの戦いアルマニャック派中心とするフランス軍大勝しノルマンディー征服したシャルルには兄がいたが、王太子ドーファンであったルイ1415年に、次いで王太子となったジャン1417年死去した。そのため新たに王太子となったが、間もなくブルゴーニュ派パリ制圧すると、フランス南部ブールジュ逃れた。のちの1438年7月、このブールジュの地でシャルル7世ガリカニスム拠るブールジュ国事詔書」を公布した1419年王太子シャルルブルゴーニュ公ジャン1世(無怖公)はイングランドに対して共闘すべく、和解交渉開始した。しかし、交渉の場で王太子支持者が無怖公を暗殺したため、跡を継いだフィリップ3世善良公)はイングランド同盟して王太子シャルル全面的に対立しトロワ条約結んでヘンリー5世フランス王継承支持した。この条約は、王太子シャルル王位継承権否認しシャルル6世死後王太子シャルルの姉カトリーヌキャサリン)を妃にしたヘンリー5世フランス王位を継ぐというものであったその際に、カトリーヌシャルル7世の母イザボー対立派から淫乱王妃呼ばれた)は、シャルルが王の子ではないことを示唆したとされ、以降シャルルは、正統な王の子ではないのかあるい狂人の子なのか、悩むことになったといわれる

※この「ブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立」の解説は、「シャルル7世 (フランス王)」の解説の一部です。
「ブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立」を含む「シャルル7世 (フランス王)」の記事については、「シャルル7世 (フランス王)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立」の関連用語

ブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのシャルル6世 (フランス王) (改訂履歴)、シャルル7世 (フランス王) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS