ブルゴーニュ領ネーデルラントとは? わかりやすく解説

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ブルゴーニュ領ネーデルラント

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/05 09:12 UTC 版)

ブルゴーニュ領ネーデルラント
Bourgondische Nederlanden (ドイツ語)
1384年 - 1482年
(国旗) (国章)

1477年のブルゴーニュ公国
公用語 オランダ語
低ザクセン語
西フリジア語
ワロン語
ルクセンブルク語
フランス語
宗教 カトリック
首都 メヘレン(事実上)
(1473年 - 1477年)
公爵
1384年 - 1405年 フィリップ2世
1477年 - 1482年 マリー
変遷
設立 1384年
解体 1482年
現在 オランダ
ベルギー
ルクセンブルク
フランス
ドイツ
先代 次代
フランドル伯領
エノー伯国
ルクセンブルク公国
アルトワ伯領
ヘルレ公国
ナミュール伯領
ブラバント公国
ホラント伯領
ユトレヒト領主領
メレレン領主領
アントウェルペン辺境伯領
ゼーラント伯領
リンブルフ公国
フリースラント領主領
ズトフェン伯領
ハプスブルク領ネーデルラント
フランス王国

ブルゴーニュ領ネーデルラント(ブルゴーニュりょうネーデルラント、フランス語: Pays-Bas bourguignonsオランダ語: Bourgondische Nederlandenルクセンブルク語: Burgundeschen Nidderlandenワロン語: Bas Payis borguignons)は、1384年から1477年までブルゴーニュ公爵が治めた低地諸国の諸領地の総称である。現在のベルギーオランダルクセンブルクフランス北部、ドイツ西部を含んでいた。

公爵家

もともとこの地域は、フランドル伯領であった。フランドル伯であったルイ2世(Louis de Mâle)が1384年に死亡した際に、娘のマルグリット3世の夫であるヴァロワ=ブルゴーニュ家フィリップ豪胆公がフランドル伯を継いだ。フィリップ豪胆公はブルゴーニュ公も兼ねており、この後約100年間、この地はブルゴーニュ公が治めることになる。

ブルゴーニュ公は当初、低地諸国のフランドル伯領、アルトワ伯領、ルテル伯領、ブルゴーニュ伯領、ヌヴェール伯領を統治したが、その後、1421年ナミュール伯領、1430年ブラバント公領リンブルク公領、1432年エノー伯領、ホラント伯領ゼーラント伯領、1441年ルクセンブルク公領、1473年ゲルデルン公領を獲得していった。

1477年にシャルル突進公が男子の跡継ぎを残さず、戦場で戦死した。娘のマリーハプスブルク家の大公マクシミリアン(のちに神聖ローマ皇帝)と結婚した。そして、1482年のマリーの死によって、ブルゴーニュ領ネーデルラントは終焉を迎えることとなる。

ネーデルラントを治めていたブルゴーニュ公は以下の通りである。

政治

この地方にはいくつもの司教区や独立都市が存在し、それぞれが独自の税制や法律を運用している上に、変更に対してはそれぞれが権利を主張し、統一に対しては大きな障壁となっていた。ブルゴーニュ公による支配権限を拡大する試みは、独立した地元の貴族により所有される個々の町による反乱により失敗した。その一方で、事務員で構成された官僚機構による近代化した中央政府は、ブルゴーニュ公が何世紀もの間芸術的活動に対する支援を行ったり、すばらしい宮廷生活を送ることを可能にした。

フィリップ善良公(統治期間1419年 - 1467年)は、支配領域を南東のブリュッセルナミュール、リージュまで拡大した。彼は、最初の「州議会」(States Généraux)のメカニズムを通して、都市の伝統的な独立性を方針としていた。その州議会は、中流市民の代表と聖職者の代表そして貴族の代表から構成された。また、彼は地方経済を強化した。

公爵による支援

1441年より、フィリップは宮殿をブリュッセルに構築した。当時はブルッヘが経済の中心地であったが、ブルッヘは1480年頃から運河への土砂の堆積によって大型船舶の航行に支障を来たすようになり、経済的に衰退が始まった。フィリップは装飾写本の作成を支援し、宮殿の絵画は最高潮に達した。これは、ロベルト・カンピンファン・エイク兄弟とロヒール・ファン・デル・ウェイデン等によりおこなわれた。

社会と経済

参考文献

  • Panofsky, Erwin, 初期のネーデルラントの芸術(Early Netherlandish Painting)
  • Prevenier, W. and Blockmans W., ブルゴーニュ領ネーデルラント(The Burgundian Netherlands) Cambridge University Press 1986

外部リンク


ブルゴーニュ領ネーデルラント

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/27 03:16 UTC 版)

オランダの歴史」の記事における「ブルゴーニュ領ネーデルラント」の解説

「ブルゴーニュ領ネーデルラント」および「ネーデルラント17州」も参照 15世紀になるとブルゴーニュ公フィリップ善良公がこれらの伯領を統一しネーデルラント一帯ブルゴーニュ公国一部(ブルゴーニュ領ネーデルラント)となる。この頃ネーデルラント毛織物生産により経済的先進地となり、ヘントアントウェルペンなどの富裕な都市を生みだしている。しかし1477年シャルル大胆公がナンシーの戦い急に戦死しブルゴーニュ公家はここで断絶してしまう。一人娘マリーオーストリア大公マクシミリアン(後の神聖ローマ皇帝)と結婚しネーデルラント地域ハプスブルク家所領となった他方ブルゴーニュ公領は、フランスルイ11世在位1461〜1481年)が接収した

※この「ブルゴーニュ領ネーデルラント」の解説は、「オランダの歴史」の解説の一部です。
「ブルゴーニュ領ネーデルラント」を含む「オランダの歴史」の記事については、「オランダの歴史」の概要を参照ください。

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