ブルゴーニュ公家との縁談
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 15:48 UTC 版)
「マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「ブルゴーニュ公家との縁談」の解説
当時のブルゴーニュ公国は、現代のフランスのブルゴーニュ地方、ロレーヌ地方(独:ロートリンゲン)、またベルギー・オランダ・ルクセンブルク(ブルゴーニュ領ネーデルラント)にまたがる広大な範囲で、かつ毛織物産業を中心とした貿易で経済的に繁栄し、北方ルネッサンス文化の中心地であった。 野心家のブルゴーニュ公シャルル(突進公/テメレール)は武力によってさらなる勢力拡大(ブルゴーニュ戦争)と、公爵からの昇格を目指していた。シャルル突進公の唯一の子女でブルゴーニュ公国の相続人マリーには、数多くの縁談申し込みがあったが、シャルル突進公は王または皇帝位に近づけるという望みから、マリーとマクシミリアンの縁談に関心を示す。 1473年9月30日、皇帝フリードリヒ3世とシャルル突進公は、トリーアで会談し、対仏政策やオスマン討伐を議論することとした。皇帝側は14歳のマクシミリアンと1000人の従者を引き連れ、またシャルル突進公も1万人を超す兵力とともに贅を尽くして皇帝一行を歓待した。シャルル突進公は、マクシミリアンのことを非常に気に入り、ブルゴーニュの経済力を盾に、2人の縁談と自身のローマ王指名をまとめようとする。しかし、フランス王国および帝国諸侯の反発を招く恐れがあり、フリードリヒ3世は慎重になり、11月24日に密かに皇帝とマクシミリアン、宰相レープヴァイン、マクシミリアンの学友と従者2名のわずか6名でモーゼル川を下ってコブレンツへ逐電した。 激怒したシャルル突進公は、ブルゴーニュ戦争において帝国に報復するが、戦いが膠着すると、1476年4月になって、ローマ王指名の要望を取り下げ、マリーとマクシミリアンの婚約のみを再度申し込んだ。一方の皇帝側も、ハンガリー王マーチャーシュ1世にウィーンをはじめニーダーエスターライヒを陥落させられ敗走しており、縁談は難無くまとまった。 マクシミリアンは皇帝の親書と自身の肖像画をヘント(仏:ガン、独:ゲント)に送る際、ダイヤモンドの指輪を贈り、マリーも感謝状と指輪を贈った。このやり取りを婚約指輪の起源とする説がある。
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