ホラントとは? わかりやすく解説

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ホラント【Holland】

読み方:ほらんと

オランダ西部地方独立以来政治・経済文化中心となってきたためオランダ全土をさすこともある。現在は、ノルト(北)ホラントとゾイト(南)ホラントの2州分けられる

[補説] 日本語での呼称オランダ」の語源となった


ホラント

名前 Holland

ホラント

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/07/18 17:46 UTC 版)

0 ホラント(北ホラント州南ホラント州
ホラントの紋章。ホラント伯領時代から1840年まで使用。

ホラント (Holland) は、オランダ西部の地域である。

オランダの政治・経済・文化の中心地域であり[1]アムステルダムロッテルダムハーグなどの主要都市が位置する。

行政上は、北ホラント州南ホラント州に分かれる。

地名

オランダ語Holtland(森の地)[2][3]、あるいは間違ってHolland(窪地)[3]に由来する。

ネーデルラント(オランダ)の中枢であることから、いくつかの言語ではオランダの別名となった。日本語の「オランダ」もその1つで、直接にはポルトガル語Holanda に由来し、これはポルトガル語ではオランダの通称である。

歴史

この地域はかつてはフリースラントの一部だったが、10世紀ごろ、神聖ローマ帝国によりフリースラントから分離され、ホラント伯領 (Graafschap Holland) となった。記録に残る最初のホラント伯は、ティルク1世(在位 916年–939年)である。

1299年、ホラント伯家は断絶し、エノー伯がホラント伯を兼ねた。

1432年ブルゴーニュ領ネーデルラントの一部となった。

1482年ネーデルラント全域(現ベルギー、現ルクセンブルクを含む)が、オーストリアハプスブルク家領となった。ホラント伯領は、ネーデルラント17州の1州となり、これ以後はホラント州と訳すこともある(原語は同じ)。

1581年、北ネーデルラントのホラントなど7州(ほぼ現オランダ)が、ネーデルラント連邦共和国として独立した。

1795年フランス革命戦争によりネーデルラント連邦共和国は崩壊し、バタヴィア共和国が建国された。7州 (graafschap) は解体され、自治権を制限された8県 (departement) に再編された。ホラントは複数県に分割され、およそ、北ホラント(現北ホラント州)はアムステル県 (Departement van de Amstel) とテセル県 (Departement van Texel)、南ホラント(現南ホラント州)はデルフ県 (Departement van de Delf) とスヘルデ・エン・マース県 (Departement van de Schelde en Maas) の一部になった。

1802年、県が再編され、ホラント全体がホラント県 (Departement Holland) になった。

1806年ナポレオンの弟ルイを王とするホラント王国が成立した。版図は(北)ネーデルラントだが、国名はホラントから採られている。

1807年、県がさらに再編され、およそ、北ホラントはアムステラント県 (Departement Amstelland)、南ホラントはマースラント県 (Departement Maasland) になった。

1810年、ホラント王国はフランス帝国に併合された。およそ、北ホラントはゾイデルゼー県 (Zuiderzee)、南ホラントはマース県 (Monden van de Maas) になった。

1815年、フランス帝国の崩壊により、ネーデルラント連合王国が独立回復した。ホラント全域が、 (provincie) の1つのホラント州 (Holland) となった。ただし、州 (provincie) は、かつての州 (graafschap) のような、連邦国家の構成国としての自治権はない。

1840年、ホラント州は、北ホラント州南ホラント州に分割された。

出典

  1. ^ 『コンサイス外国地名辞典』第3版「ホラント Holland」1998 三省堂
  2. ^ リーダーズ英和辞典』「Holland」1984 研究社
  3. ^ a b 本保正紀『外国地名由来辞典』「オランダ」1995 能登印刷出版部

ホラント

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 19:36 UTC 版)

1809年オーストリア戦役」の記事における「ホラント」の解説

ホラント王国イギリスオーストリア戦線圧力緩和しようとワルヘレン戦役(英語版)を開始したイギリス軍は、イベリア半島派遣している軍を上回る39,000名以上の大軍7月30日にワルヘレンへ上陸させた。しかしこの時既にオーストリア戦争敗北していた。ワルヘレン戦役はほとんど戦闘が行われなかったが、一般的に"ワルヘレン熱"と呼ばれるマラリアチフス合併症考えられる病気のため、多く死傷者がでた。イギリス軍4000名以上を失い残りの軍は1809年12月撤退した

※この「ホラント」の解説は、「1809年オーストリア戦役」の解説の一部です。
「ホラント」を含む「1809年オーストリア戦役」の記事については、「1809年オーストリア戦役」の概要を参照ください。

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