ハーグ【Den Haag】
ハーグ
デン・ハーグ
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/26 13:10 UTC 版)
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デン・ハーグ スフラーフェンハーヘ Gemeente Den Haag / ’s-Gravenhage |
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![]() デン・ハーグの高層ビル群及びウィレム1世像 |
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愛称 : 住宅都市 (Residentiestad)、宮廷都市 (Hofstad) | |||||
位置 | |||||
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位置 | |||||
座標 : 北緯52度04分38秒 東経4度19分01秒 / 北緯52.077086度 東経4.317058度 | |||||
行政 | |||||
国 | ![]() |
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州 (Provincie) | ![]() |
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基礎自治体 | デン・ハーグ スフラーフェンハーヘ |
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地理 | |||||
面積 | |||||
基礎自治体域 | 98.2 km2 | ||||
陸上 | 82.66 km2 | ||||
水面 | 15.54 km2 | ||||
人口 | |||||
人口 | (2022年現在) | ||||
基礎自治体域 | 553,417人 | ||||
人口密度 | 6695人/km2 | ||||
備考 | [1] | ||||
その他 | |||||
等時帯 | CET (UTC+1) | ||||
夏時間 | CEST (UTC+2) | ||||
公式ウェブサイト : http://www.denhaag.nl/ |
デン・ハーグ(オランダ語: Den Haag [dɛnˈɦaːx] ( 音声ファイル) デン・ハーフ/’s-Gravenhage [ˈsxraːvə(n)ˌɦaːɣə] (
音声ファイル) スフラーフェンハーヘ、日本語では多くハーグ)は、北海沿岸に位置するオランダ南ホラント州の基礎自治体(ヘメーンテ)であり、同州の州都。事実上のオランダの首都で、アムステルダムとロッテルダムに次ぐオランダ第3の都市でもある。
ハーグ内にはオランダ議会(スターテン・ヘネラール)と首相官邸が立地するビネンホフがあり、王室の宮殿、中央官庁、各国の大使館なども置かれ、首都機能の大部分を担い、国内政治の中心都市である。そのほかにも、国際司法裁判所や旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷、国際刑事裁判所等の重要な国際機関が複数置かれ、「平和と司法の街」とも呼ばれる。一般に首都とされているアムステルダムは、憲法において首都と規定され、かつ王宮も存在するが、王室が大部分の期間ハーグに居住しているため実質的には離宮であり、歴史的にも首都機能はハーグが担ってきている。
イングランド王ジェームズ2世が亡命してきたり、逆にオランダ王ウィレム2世をイギリスへ亡命させたりした、緊密な英蘭関係を象徴する都市である。
北海に面した郊外に、行楽地であるスヘフェニンゲンがある。
名称

オランダ語の名称には、 Den Haag(デン・ハーハ)と 's-Gravenhage(スフラーフェンハーヘ)の二つがあり、「伯爵の生け垣(領地)」を意味する後者が正式名称で、これを略した前者が通常用いられる。
日本語での表記「ハーグ」(漢字の当て字は「海牙」)は、Den Haag の語尾 “g”(無声軟口蓋摩擦音)に相当する文字がないために、英語風の読み方で定着したものと思われる。なお、古い時代の記述には英語の発音に倣って「ヘーグ」と書く例も存在する。
また、フランス語では La Haye(ラ・エ)、スペイン語では La Haya(ラ・アヤ)、英語では The Hague(ザ・ヘイグ)と表記される。このようにDen、La、Theといった頭文字が大文字の定冠詞を付け、さらにその後に続く名詞の頭文字をも大文字にすることによって地名であることを示す表記法が、冠詞を有する西欧・南欧諸語等の慣例である。
歴史


1230年、ホラント伯フロリス4世は狩猟の場とするために、ホフ池の沼に沿った土地を購入し住居を設けた。1248年、ホラント伯ヴィレム2世がそれを宮殿に改築する工事に着手した。1256年、ヴィレム2世は完成を見ずに死亡するが、工事はホラント伯フロリス5世によって部分的に完成された。ビネンホフにある騎士の館 (Ridderzaal) がそれである。
15世紀初頭、ブルゴーニュ公がホラント一帯を治めると、オランダ総督を任命し統治を委ねたが、総督はこの地を政府とした。八十年戦争が始まると城壁がなかったためにスペイン軍に容易に占領を許した。1588年にはネーデルラント連邦共和国の政府が置かれた。1608年よりこの地で八十年戦争の和平交渉が行われ、翌1609年にアントウェルペンで休戦条約が成立した。
1806年、ルイ・ボナパルトによってハーグは市に昇格された。ナポレオン戦争後、ネーデルラント連合王国が誕生すると、その首都はブリュッセルとハーグの2年ごとの持ち回りとなったが、政府は常にハーグに置かれた。1830年、ベルギーが独立すると首都はアムステルダムとなったが、政府はハーグに置かれたままとなった。 1899年と1907年には万国平和会議が開催された。第一次世界大戦後、常設国際司法裁判所が設置され、第二次世界大戦後の国際司法裁判所に引き継がれた。
1929年8月、6日から31日にかけて、ヤング案をめぐる第一回国際会議が開かれた。翌年に第二回が催され、ドイツはヤング案を受諾。連合国はラインラントからの撤退に同意した。1929年2月11日すでにパリでヤング委員会が開かれていた。
1974年にはフランス大使館で日本赤軍によるハーグ事件が発生した。オランダとフランスは、屈辱的にテロリストの要求を飲むこととなった。
行政区

デン・ハーグ基礎自治体には以下の行政区がある。
- Centrum
- Escamp
- Haagse Hout
- Laak
- Leidschenveen-Ypenburg
- Loosduinen
- Scheveningen(スヘフェニンゲン)
- Segbroek
国際機関

ハーグには150もの国際機関が存在するが、平和・司法の国際都市となった基礎は1899年と1907年に開かれた万国平和会議である。この結果、世界初の国際紛争処理機関として常設仲裁裁判所 (PCA) が出来た。それから間もなく米富豪アンドリュー・カーネギーが資金を提供して平和宮が建設されPCAの建物となった。国際連盟が出来るとハーグに常設国際司法裁判所が置かれ、第2次大戦後は国際司法裁判所となった。1981年のイラン・米国紛争法廷、1993年の旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷、2002年の国際刑事裁判所などの設置によりハーグは国際法律問題調停の地位を確立していった。現在、ニューヨークに次ぐ国連都市であり、国際会議の中心地として重要性が高まっており、ハーグ市では「法律の世界首都」そして「平和と司法の国際都市」としてのブランド化を目指している。
観光
- マドローダム
- ビネンホフ
- マウリッツハイス美術館
- 騎士の館 (Ridderzaal)
- 国会議事堂
- 旧市庁舎と大教会 (Grote Kerk)
- エッシャー美術館
- ノールドアインデ宮殿(Paleis Noordeinde) - 国王が執務する際に使用する宮殿(入場不可)
- ハウステンボス宮殿 - 国王の居所(公園は入場可)
- 平和宮
- スヘフェニンゲン
- 飾り窓
- ボーテルヴァーフ
交通
空港
最寄の主要空港は、アムステルダム・スキポール空港である。デン・ハーグHS駅より鉄道で約30分である。
道路
市内中心部(中央駅横)まで高速道路A12が乗り入れている。この道路は途中から欧州自動車道路E30, E35となり、ユトレヒトを経由してドイツのオーバーハウゼンまで延びている。 また、デン・ハーグ郊外のインターチェンジ (Prins Clausplein) でA4、A13(欧州自動車道E19)と接続しており、アムステルダムやロッテルダムへ直通できる。
鉄道
オランダ鉄道 (NS) の主要駅であるデン・ハーグ中央駅とデン・ハーグHS駅が市内中心部にある。
デン・ハーグHS駅はアムステルダムとベルギーのブリュッセルを結ぶ幹線路線上にあり、アムステルダム中央駅、スキポール空港駅、ロッテルダム中央駅、ユトレヒト中央駅へ10分に1本以上のパターンダイヤで列車が走っている。ブリュッセルへは1時間に1本、また、パリ北駅への高速列車Thalysもこの駅に停車する。
- ランドスタット鉄道
- HTM(ハーグ市営交通会社)とRET(ロッテルダム電鉄)がズーテルメールやロッテルダムとの間の3路線を運行している。市内中心部(Grote Markt〜Spui)は地下路線を走っている。
- トラム
- HTM(ハーグ市営交通会社)が10路線を運行している。1系統は隣の街のデルフトまで路線が延びている。
スポーツ
- ADOデン・ハーグ - デン・ハーグを本拠地とするサッカークラブ。リーグ優勝2回、カップ優勝2回を誇る。2020-21シーズンはエールディヴィジ(1部リーグ)に所属。
- HVVデン・ハーグ - 同じくデン・ハーグを本拠地とするサッカークラブ。リーグ優勝10回、カップ優勝1回。2020-21シーズンはトゥヴェーデ・クラッセ(7部リーグ)に所属。
- SVVスヘフェニンゲン - 基礎自治体のひとつであるスヘフェニンゲンに本拠地を置くサッカークラブ。2020-21シーズンはトゥヴェーデ・ディヴィジ(3部リーグ)に所属。
- HV & CVクイック - クイック・デン・ハーグとも呼ばれるサッカークラブ。2020-21シーズンはデルデ・ディヴィジ(4部リーグ)に所属。
- HBSクラーイェンハウト - サッカークラブ。リーグ優勝3回。2020-21シーズンはフーフトクラッセ(5部リーグ)に所属。
- TAC '90 - 正式名称はタクディル・ボーイズ・アマル・デープ・コンビナーティ'90というサッカークラブ。2020-21シーズンはフーフトクラッセ(5部リーグ)に所属。
脚注
- ^ “NETHERLANDS: Administrative Division”. Citypopulation.de (2022年9月15日). 2022年11月22日閲覧。
関連項目
外部リンク
ハーグ(1882年-1883年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 00:20 UTC 版)
「フィンセント・ファン・ゴッホ」の記事における「ハーグ(1882年-1883年)」の解説
1882年1月、彼はハーグに住み始め、オランダ写実主義・ハーグ派の担い手であったモーヴを頼った。モーヴはファン・ゴッホに油絵と水彩画の指導をするとともに、アトリエを借りるための資金を貸し出すなど、親身になって面倒を見た。ハーグの絵画協会プルクリ・スタジオの準会員に推薦したのもモーヴであった。しかし、モーヴは次第にファン・ゴッホによそよそしい態度を取り始め、ファン・ゴッホが手紙を書いても返事を寄越さなくなった。ファン・ゴッホはこの頃にクラシーナ・マリア・ホールニク(通称シーン)という身重の娼婦をモデルとして使いながら、彼女の家賃を払ってやるなどの援助をしており、結婚さえ考えていたが、彼は、モーヴの態度が冷たくなったのはこの交際のためだと考えている。石膏像のスケッチから始めるよう助言するモーヴと、モデルを使っての人物画に固執するファン・ゴッホとの意見の不一致も原因のようである。ファン・ゴッホは、わずかな意見の違いも自分に対する全否定であるかのように受け止めて怒りを爆発させる性向があり、モーヴに限らず、知り合ったハーグ派の画家たちも次々彼を避けるようになっていった。交友関係に失敗した彼の関心は、アトリエでモデルに思いどおりのポーズをとらせ、ひたすらスケッチをすることに集中したが、月100フランのテオからの仕送りの大部分をモデル料に費やし、少しでも送金が遅れると自分の芸術を損なうものだと言ってテオをなじった。 同年(1882年)3月、ファン・ゴッホのもとを訪れたコル叔父が、街の風景の素描を12点注文してくれたため、ファン・ゴッホはハーグ市街を描き続けた。そしてコル叔父に素描を送ったが、コル叔父は「こんなのは商品価値がない」と言って、ファン・ゴッホが期待したほどの代金は送ってくれなかった。ファン・ゴッホは同年6月、淋病で3週間入院し、退院直後の7月始め、今までの家の隣の家に引っ越し、この新居に、長男ヴィレムを出産したばかりのシーンとその5歳の娘と暮らし始めた。一時は、売れる見込みのある油絵の風景画を描くようにとのテオの忠告にしぶしぶ従い、スヘフェニンゲンの海岸などを描いたが、間もなく、上達が遅いことを自ら認め、挫折した。冬の間は、アトリエで、シーンの母親や、赤ん坊、身寄りのない老人などを素描した。 ファン・ゴッホはそこで1年余りシーンと共同生活をしていたが、1883年5月には、「シーンはかんしゃくを起こし、意地悪くなり、とても耐え難い状態だ。以前の悪習へ逆戻りしそうで、こちらも絶望的になる。」などとテオに書いている。ファン・ゴッホは、オランダ北部のドレンテ州に出て油絵の修行をすることを考え、同年9月初め、シーンとの間で、ハーグでこのまま暮らすことは経済的に不可能であるため、彼女は子どもたちを自分の家族に引き取ってもらうこと、彼女は自分の仕事を探すことなどを話し合った。シーンと別れたことを父に知らせ、ファン・ゴッホは、9月11日、ドレンテ州のホーヘフェーンへ発った。また、同年10月からはドレンテ州ニーウ・アムステルダムの泥炭地帯を旅しながら、ミレーのように農民の生活を描くべきだと感じ、馬で畑を犂く人々を素描した。 『屋根、ハーグのアトリエからの眺め』1882年、ハーグ。水彩、39 × 55 cm。個人コレクションF 943, JH 156。 シーンを描いた『悲しみ』1882年4月、ハーグ。素描(黒チョーク)。 『泥炭湿原で働く女たち』1883年10月、ニーウ・アムステルダム。油彩、キャンバス、27.8 × 36.5 cm。ゴッホ美術館F 19, JH 409。
※この「ハーグ(1882年-1883年)」の解説は、「フィンセント・ファン・ゴッホ」の解説の一部です。
「ハーグ(1882年-1883年)」を含む「フィンセント・ファン・ゴッホ」の記事については、「フィンセント・ファン・ゴッホ」の概要を参照ください。
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