チュニスとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 同じ種類の言葉 > 地理 > 都市 > 首都 > チュニスの意味・解説 

チュニス

名前 Tunis

チュニス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/22 17:27 UTC 版)

チュニス
تونس
Tunis
位置

チュニジア内のチュニス県の位置
位置
チュニス
チュニス (地中海)
チュニス
チュニス (チュニジア)
座標 : 北緯36度48分0秒 東経10度10分12秒 / 北緯36.80000度 東経10.17000度 / 36.80000; 10.17000
行政
チュニジア
  チュニス県
 市 チュニス
地理
面積  
  市域 212.63 km2
標高 4 m
人口
人口 (2014年現在)
  市域 747,240人
    人口密度   3,514.2人/km2
その他
等時帯 中央ヨーロッパ時間 (UTC+1)
夏時間 中央ヨーロッパ夏時間 (UTC+2)
ISO 3166-2 TN-11
公式ウェブサイト : http://www.commune-tunis.gov.tn/

チュニスTunis、تونس ラテン文字転写 : Tūnis トゥーニス)は、チュニジア共和国首都であり、同国のチュニス県県都でもある。また同国の商業・工業の中心地で、アフリカ有数の世界都市である。2019年の経営コンサルティング会社A.T.カーニーの発表によると、世界第102位の世界都市と評価されている。北アフリカではカイロカサブランカに次ぐ第3位である。

概要

人口約83万人(2004年12月現在)。近郊を含む都市的地域の人口は235万人であり、世界第164位である[1]。市街はチュニス湖とその西方の塩湖セブカ・セジューミ(fr)の間の地峡部にあり、チュニス湖は、地峡部を横断する運河で、地中海チュニス湾に面する外港のラ・グレットと結ばれる。オリーブ油リン鉱石などを輸出。チュニス大学がある。

歴史

古代地中海世界

チュニスの原型は、古代フェニキア人によって建設された、カルタゴ近郊の町である。古代はチェニェスと呼ばれていたようである。チェニェスはカルタゴの衛星都市として栄えたが、カルタゴはローマ共和国との間で戦争を繰り返し、紀元前146年第三次ポエニ戦争で完全に破壊された。その後、ローマの属州アフリカとなり、町は再建された。376年のローマ帝国の分裂に伴い、東ローマ帝国の属州となった。

イスラーム化

7世紀にはウマイヤ朝イスラム帝国)は、当時イフリーキヤと呼ばれたチュニジアの占領を目指していた。670年のオクバの遠征によってイフリーキヤにはカイラワーンが建設され、ウマイヤ帝国のアフリカ支配の拠点として更なる拡大をもくろんだが、ベルベル人の激しい抵抗にあって苦戦した。その後、ハッサン・イブン・アル=ヌマン率いるウマイヤ朝軍が東ローマ帝国軍を破ってカルタゴを占領、さらに701年にはベルベル人が支配するカヘナも攻略する。これ以降、この街はチュニスとしてアラブ人によって開発されることになった。

750年アラブ世界では主導権がウマイヤ朝が滅んでアッバース朝が興隆し、イフリーキヤではイブラーヒーム・イブン・アル=アグラブが独立した。アグラブ朝は9世紀初頭にアッバース朝に認められ、1世紀程独立首長国として君臨した。アグラブ朝時代には、チュニスの地に港やザイトゥーナ・モスクが建設され、カイラワーンに次ぐ聖地として知られるようになった。

909年、アグラブ朝を滅ぼしたファーティマ朝マフディーヤを中心にイスマーイール派の王国を築いたが、969年に首都をカイロに移した。チュニジアに残ったベルベル人のブルッキン・イブン・ズィールは、ズィール朝を築いて繁栄を見せるが、ファーティマ朝を裏切ってスンナ派に改宗したため、アラブ系スライム族とヒラール族の大軍に攻略された。無政府状態に陥ったチュニジアは、一時期シチリア王国を築いたキリスト教徒のノルマン人に占領されるが、12世紀には西方から侵攻したモロッコムワッヒド朝が支配することになった。

ハフス朝

1228年に、ムワッヒド朝のイフリーキーヤの総督であったアブー・ザカリーヤー1世が、ムワッヒド朝がキリスト教徒の傭兵に頼らざるを得なくなり、自らの宗教的権威を否定したことに対し同王朝の存立理念であったイスラム復興運動、タウヒード運動の真の教えと精神を守るという名目で、1229年にアミールの称号を名乗って独立した。これがハフス朝である。ハフス朝はチュニスを首都に定め、数々のモスクマドラサ(学校)を建設する。また外国からも、巡礼者や商人が集まり、大都市として繁栄した。

16世紀に入るとハフス朝は衰退し、さらに東方から侵攻してきたオスマン帝国の脅威に晒されることとなった。1534年にオスマン帝国軍がチュニスを攻略したため(チュニス征服 (1534年)英語版)、ハフス朝のスルターンはスペイン王神聖ローマ皇帝カルロス1世に援軍を要請し、翌1535年にスペイン軍がチュニスを占領し(チュニス征服 (1535年))、スペインの保護国としてハフス朝は復活した。

オスマン帝国

1574年オスマン帝国がハフス朝を滅ぼし(チュニス占領 (1574年)英語版)、その傘下となるが(オスマン・チュニス英語版)、オスマン帝国の地方総督であるパシャ(太守)の権力は次々と変わり、実際には地元総督であるベイによる世襲のムラード朝やフサイン朝のような王朝による統治がなされた。17世紀頃には、イベリア半島スペイン王国)でモリスコが追放されアンダルシア地方に住んでいたムーア人がチュニジアに移り住んだ。元々、国際都市であったチュニスはますます国際色豊かになっていった。

19世紀になるとオスマン帝国の勢力は衰え始め、ヨーロッパ諸国の植民地政策がチュニスにも及び始めた。フサイン朝はヨーロッパ諸国に倣った近代化政策を採ったが、近代化政策による歳出の増加により財政破綻を起こした。

フランス保護領

フランスによるチュニジア侵攻の結果、1881年フランスの保護領となったチュニジアは、フランスの貨幣制度が導入され、様々な権力がフランスへ移管されることになった。

20世紀に入り、チュニジア内で独立に向けた抵抗運動が盛んになったころ、フランスは世界恐慌の波を受けて揺らぎ始めていた。第二次世界大戦において、フランスがナチス・ドイツによって占領され、ヴィシー・フランス政権が誕生すると、チュニジアもヴィシー・フランス政権の影響下となった。しかし、地下に潜って抵抗活動を続けた新ドゥストゥール党のハビーブ・ブルギーバらは連合国軍側を支持しつづけた。1943年に連合国軍によってチュニジアが解放されるとチュニジアは自由フランスの統治に復帰したが、ブルギーバはカイロに亡命して、当地で独立運動を展開。そして、1956年にはフランスから独立することができた。

気候

チュニスの気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温記録 °C°F 25.2
(77.4)
29.8
(85.6)
35.2
(95.4)
33.0
(91.4)
39.0
(102.2)
45.2
(113.4)
46.7
(116.1)
46.8
(116.2)
44.4
(111.9)
39.9
(103.8)
31.6
(88.9)
25.9
(78.6)
46.8
(116.2)
平均最高気温 °C°F 15.7
(60.3)
16.5
(61.7)
18.1
(64.6)
20.7
(69.3)
24.9
(76.8)
29.0
(84.2)
32.6
(90.7)
32.7
(90.9)
29.7
(85.5)
25.2
(77.4)
20.5
(68.9)
16.7
(62.1)
23.5
(74.3)
日平均気温 °C°F 11.5
(52.7)
12.0
(53.6)
13.2
(55.8)
15.6
(60.1)
19.3
(66.7)
23.2
(73.8)
26.3
(79.3)
26.8
(80.2)
24.4
(75.9)
20.4
(68.7)
15.9
(60.6)
12.5
(54.5)
18.4
(65.1)
平均最低気温 °C°F 8.2
(46.8)
8.4
(47.1)
9.3
(48.7)
10.4
(50.7)
13.7
(56.7)
17.3
(63.1)
20.0
(68)
20.8
(69.4)
19.0
(66.2)
15.5
(59.9)
11.3
(52.3)
9.2
(48.6)
13.3
(55.9)
最低気温記録 °C°F −1.7
(28.9)
−1.0
(30.2)
0.4
(32.7)
2.6
(36.7)
5.9
(42.6)
9.6
(49.3)
12.9
(55.2)
13.4
(56.1)
12.1
(53.8)
5.5
(41.9)
2.4
(36.3)
−0.4
(31.3)
−1.7
(28.9)
降水量 mm (inch) 59.3
(2.335)
57.0
(2.244)
47.2
(1.858)
38.0
(1.496)
22.6
(0.89)
10.4
(0.409)
3.1
(0.122)
7.1
(0.28)
32.5
(1.28)
65.5
(2.579)
56.0
(2.205)
66.8
(2.63)
465.5
(18.327)
平均降水日数 9 8 8 6 4 2 1 1 4 7 7 8 65
平均月間日照時間 145.7 165.3 198.4 225.0 282.1 309.0 356.5 328.6 258.0 217.0 174.0 148.8 2,808.4
出典1:World Meteorological Organization,[2] Hong Kong Observatory for data of avg. precipitation days and sunshine hours[3]
出典2:NOAA (extremes)[4]

観光

チュニス旧市街
チュニジア
画像募集中
英名 Medina of Tunis
仏名 Médina de Tunis
登録区分 文化遺産
登録基準 (2),(3),(5)
登録年 1979年
公式サイト 世界遺産センター(英語)
地図
使用方法表示
  • ローマ史や世界史等の歴史で有名なカルタゴは、北東近郊にある。
  • メディナと呼ばれる、城壁に囲まれた旧市街地は1979年ユネスコ世界遺産に登録されている。
  • アグラブ朝時代及びハフス朝時代にまで起源が遡れる噴水、宮殿、イスラム聖職者学校、霊廟、記念碑等。
  • バルド国立博物館

世界遺産

この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

  • (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
  • (3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
  • (5) ある文化(または複数の文化)を代表する伝統的集落、あるいは陸上ないし海上利用の際立った例。もしくは特に不可逆的な変化の中で存続が危ぶまれている人と環境の関わりあいの際立った例。

交通

市内中心部から北東に約8kmのところに、国内最大の国際空港であるチュニス・カルタゴ国際空港があり、国外から多くの観光客を招き入れているほか、国内の交通の重要な拠点にもなっている。また、市内中心部の鉄道駅からも、国内の各都市へ向かう列車が数多く出発されている。

市内には、バスの他にメトロと呼ばれる路面電車が5路線運行されており、市民の重要な足となっている。その他、TGMと呼ばれる電車が郊外に向けて走っており、こちらはカルタゴ遺跡や、シディ・ブ・サイドなどへ向かう観光者にも利用されている。

文化

1966年以降、アラブ・アフリカ世界の映画を対象としたカルタゴ映画祭 (Journées Cinématographiques de Carthage) が2年毎に開催されている。

関係者

出身者

姉妹都市

脚注

[脚注の使い方]

参考文献

外部リンク


「チュニス」の例文・使い方・用例・文例

Weblio日本語例文用例辞書はプログラムで機械的に例文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。



チュニスと同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「チュニス」の関連用語


2
ガマルタ デジタル大辞泉
70% |||||

3
チュニス湖 デジタル大辞泉
70% |||||

4
ジトゥナ‐モスク デジタル大辞泉
70% |||||

5
シディ‐アリ‐エル‐メキ デジタル大辞泉
54% |||||

6
バブ‐バハル デジタル大辞泉
54% |||||

7
ハビブブルギバ通り デジタル大辞泉
52% |||||

8
ベルジュ‐ドゥ‐ラック デジタル大辞泉
52% |||||

9
ラ‐グレット デジタル大辞泉
52% |||||

10
ラ‐マルサ デジタル大辞泉
52% |||||

チュニスのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



チュニスのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのチュニス (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
Tanaka Corpusのコンテンツは、特に明示されている場合を除いて、次のライセンスに従います:
 Creative Commons Attribution (CC-BY) 2.0 France.
この対訳データはCreative Commons Attribution 3.0 Unportedでライセンスされています。
浜島書店 Catch a Wave
Copyright © 1995-2024 Hamajima Shoten, Publishers. All rights reserved.
株式会社ベネッセコーポレーション株式会社ベネッセコーポレーション
Copyright © Benesse Holdings, Inc. All rights reserved.
研究社研究社
Copyright (c) 1995-2024 Kenkyusha Co., Ltd. All rights reserved.
日本語WordNet日本語WordNet
日本語ワードネット1.1版 (C) 情報通信研究機構, 2009-2010 License All rights reserved.
WordNet 3.0 Copyright 2006 by Princeton University. All rights reserved. License
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
「斎藤和英大辞典」斎藤秀三郎著、日外アソシエーツ辞書編集部編
EDRDGEDRDG
This page uses the JMdict dictionary files. These files are the property of the Electronic Dictionary Research and Development Group, and are used in conformance with the Group's licence.

©2024 GRAS Group, Inc.RSS